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【魔除けしたのに】 その② 八木商店著

 駅のホームでゆうに話し掛けてきた老婆は、私が今しがたこの田舎の街に帰ってきたとわかったのだろうか。老婆の話し方は、東京での生活に慣れてきた私に合わせて、無理に不慣れな標準語で応答してくれていたように思う。由美子たちは再びバスに乗り換えるために下車し、バスがやってくるまで小さなその無人駅で待った。バスが二人を乗せるまで、由美子はゆうに持ってきた絵本を読んで聞かせた。

 絵本を読み終わるのを見計らうかのようにバスが現れた。その駅で乗り込んだのは由美子とゆうの二人だけだった。バスは道幅の狭い道路をゆっくりと動きはじめ、のろのろとだが確実に懐かしい故郷の街へと二人を連れて行った。

 もうすぐ家に着くのかと思うと、意識しなくとも身体が下車の体勢を整えようとした。前のめりになり、シートから少し浮かした身体を支えようと両足の爪先に体重をかけ、力いっぱい振動のうるさい床を踏みつけていた。下車ボタンを押すのはゆうに任せた。

 バスを降りたとき、そのときになって初めて故郷に帰ってきた実感が湧き起こった。バス停から実家までは300メートルくらいだろうか。この道は高校の三年間ずっと歩きつづけた道だ。あの頃はいつも家に向かう学校帰りの道は慌ただしく急いでいたと思う。それは朝、学校に行くときの方が加速は増していたけど。

 ゆうの手を引いて、陽射しを照り返す細い路地をくねくねと曲がり、ゆっくり歩く。歩きながら目に映る街並みに、高校の頃の様々な思い出が蘇ってきた。もうとっくに記憶の片隅に追いやられ、忘れていた思い出までもふと顔を覗かせてくる。昔懐かしい道を辿ることは、記憶に埋没した過去を辿る道でもあった。笑みを浮かべる由美子は雲一つない晴れ渡った青い空に目を向けた。

 奇麗な青。

 空はどこまでも青一色だった。

 由美子はふと足を止めて、視線を空から街並へと下げた。古い瓦葺きの屋根が、陽射しを照り返してキラキラ光っている。遠くまで波のように輝く瓦葺きの屋根がつづいている。由美子はガンメタ色に反射する瓦屋根に視線を這わせながら、再び歩きはじめた。すると他の屋根よりも一段高い立派な瓦葺きの屋根が目に入ってきた。それはもうすぐ家に着く知らせでもあった。

 一際目立つ瓦葺きの屋根。大きくて古い瓦が大きな屋根に奇麗に敷き詰められている。それは昔から由美子が目印にしたお寺の本堂の屋根だった。

 ああ、私もゆうくらいの頃、よくあのお寺で遊んだわ。もうほとんど忘れてしまったけど、いつもあそこで夕方遅くまでいたように思う。あの頃は何をして遊んでいたんだろう。私が忘れてしまった子供の頃の思い出は、ちゃんと供養されているのかしら。もうほとんど思い出せないってことは、ちゃんと成仏できたってことなのね。

 由美子はお寺を門前で覗き込んだ。そのとき高校の頃は毎日お寺の前の道を通っていたというのに、中を覗いて見ることはなかったことに気づいた。ゆうくらいの頃はいつも何の抵抗もなくお寺の門を潜ることができたのに、高校の頃には強い抵抗感を感じていた。何故だろう? 由美子は門前を通り過ぎながら考えてみたが、答えは見つからなかった。そのときふとこの帰郷に先駆けて邦明と行ったお寺が目の前をかすめた。

 それは残暑厳しい9月上旬のことだった。由美子はその日思い切って、帰宅した邦明に真理の結婚式に出席したい旨を伝えた。すると邦明は数秒ほど黙ると、突然普段口にしないことを言いはじめた。

「俺、何かおかしな物に憑かれてんのかな?」

「どういうこと?」

「こんなに結婚式に招待されるのって、何かが憑いてるからだと思うんだよね」

 何を言い出すのかと思えば。由美子は嫌味にしか聞こえなかった。

「何も憑いてないでしょ。ただ今年は式を揚げる人が集中しただけのことよ」

「そうかなぁ?」

「気にしすぎよ」

 邦明は納得した様子は見せなかった。

「結婚式に出るのはいいけど。その前にちょっと付き合ってもらえないか」

「え、出席してもいいの!」

 由美子は「駄目だ!」と一喝されるものだと覚悟していたが、彼の意外な言葉に宙を舞うほど喜んだ。しかし、喜びの絶頂にいる由美子とは対照的に、深刻な表情を浮かべた邦明がそこにいた。由美子には彼のそのおどおどした様子が不思議でならなかった。

「付き合うって、どこに?」

「先日会社でちょっと小耳に挟んだんだけどね。世田谷に厄除けで有名なお寺があるんだって。そこでお払いしてもらえば災難から免れるそうなんだ。本当に効くらしいんだよ。明日、一緒にいいかな?」

 お払いだなんて。

 合理的な考え方しかできないと思っていた夫から、予想外な言葉が返ってきたことに由美子は驚きを隠せなかった。

 お払いに付き合えば式に出席してもいいのだ。そんなことならお安い御用だわ。それにしても明日だなんて。そんなに急がなきゃダメなのかしら? 何事も病は気からっていうけど、お払いで彼の気がすむのならいいわ。

 由美子は快くいいわよと返した。邦明は子供のようにはしゃいで喜んだ。しかし由美子には理解できないでいた。夫は迷信じみたことは軽視して、絶対に信じようとしなかったからだ。彼は神社仏閣にお参りすることさえ嫌がっていたのに、一体どうしちゃったのかしら? 会社で小耳に挟んだそうだけど、会社で何方かそのお寺でお払いして頂いたのかしら。

「あのね?」

 一人胸に仕舞い込んだ蟠りを吐き出しつづける邦明の話の腰を折って、由美子は声を挟んだ。

「あ、ごめん。俺一人でしゃべってたな。何?」

「会社で誰かお払いしてもらったの?」

「いや。会社の人間じゃないんだけどね。取引先の社長さんがそのお寺でお払いしてもらった途端に」

 邦明はそこまで言って慌ててタバコに火を点けた。そして「開運したそうなんだ」と吸い込んだ白い煙と一緒に吐き出した。由美子には邦明の話が怪訝でならなかった。

 

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