卒業あめでとう

今日は3月1日。

多くの高校は今日卒業式を迎えたことだろう。


私も昨年の3月1日、高校を卒業した。
「そっか、去年の今頃は卒業式だったのか」と思い出して、画像を見返してみた。

不思議なことに、画像を見るとはっきりと昨日のことのように情景が思い出せる。卒業式数日前に髪を切り、もう卒業だからと少し写真を撮り、校門前は長蛇の列でそこまでの元気がなかったというかそれよりも早くご飯が食べたかった友人一行と焼肉を食べて制服を最後に焼肉臭くしたことを思い出せる。

しかし、また不思議なことに、それが昨年という感じがしない。
数年前、あるいは数十年前のような気がする。

今日、卒業アルバムを開いて見てみたら、友人のメッセージが卒業あめでとうになってる。おめでとうじゃなくてあめでとうになって笑っちゃったのは確かに覚えているけど、なんで「あめでとう」になったのかは全く思い出せない。

考えてみるとここ1年色々なことがあった。卒業式翌日に教習所に通い必死で一ヶ月ぐらいかけて免許を取得。大学入学という新しい環境に身を置き、友人ができたりサークルに入ったり、新しくバイトを始めたり、劇場にお笑いを見に行き出したり、様々な変化に対応し続けた1年を送った。

全部、「あの頃はああだったよね」と振り返ることはできるのに、それらの時流れは実際の時間よりも体感遠く感じられるみたいだ。

私は一応日本の法では成人とは言える年齢なのだが、酒と煙草を合法的に嗜められる年齢にはギリギリまだなっていない。今年なれる。人間は20歳を過ぎると老化が始まると保健の授業で習った。気がつけば、楽しい思い出も嫌なトラウマも同じぐらいある小学生の頃の記憶も、人生一楽しんでたけど黒歴史を量産した中学生の頃の記憶も断片的に抜け落ちている感覚がある。こうして文字に起こすと悲しく見えるな。でも、あの頃は毎日が精一杯で先の未来なんて気にしてられる余裕がなかった自分だったが、今そうではなくなっている。その代わり、若さ特有のハツラツな元気さとかは失っているけど。そうやって人は歳を重ね、衰えていくのだと思う。


中学時代の友人と「卒業してもまたいっぱい会おうね!」と当たり前のようにあの頃は言えたけど全然会えてない。でも久しぶりに会うとあの頃のようにまたウキウキと話せる自分がいる。記憶は遠くなっても、あの頃の感覚は忘れていない。「久しぶり」なんて言いながら身の上話をしているうちはまだ心に何かが残っているのだろう。その感覚を大事にしていきたい。

今後生きていく中で「卒業」という言葉を使うのは多分あと一回しかない。卒業以外でも、別れと出会いは何かと付き纏うのがセオリーらしい。記憶は薄れても、忘れさられたとしても、振り返るということは心に置いて生きていく人生にしたい。