死体を想え

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【超閲覧注意画像】である。
しかしわたしは、この一枚のバラバラ死体の鮮やかなカラー写真を興味本位で此処に載せたのではない。
人々に、”死”について、想って戴きたかったからである。
この一枚の死体写真を眺めながら、人が各々に死とは何か?生とは何か?とみずからに問い掛ける必要が、現代に最も求められているのだと、わたしは確信したからである。
この写真について、説明しよう。この写真は、快楽殺植物者と想われる何者かが胡瓜と、海苔と、胡麻を惨殺した挙げ句、バラバラに解体し、細かく切り刻み、または粉砕機にかけ、そのすべてを皿の上に載せ、盛り付けたものである。(大豆を惨殺して発酵させた豆味噌については言及しない。殺害現場に豆味噌のパックが置かれていた為である。多分、犯人が闇市場から購入してきたものであろう。)
大変に、凄惨で残酷極まりない殺害と、死体損壊の様子が、この一枚の無残な死体写真から、想像して戴けたのではないだろうか。
この胡瓜と海苔と胡麻を殺害した犯人は今頃、どこで何をしているかは我々は知ることはできないし、遺族たちもまた、沈黙を続けている。
この写真を撮影したのは或る界隈では大変に有名な植物死体写真家であり、彼ほど、世界中を飛び回って植物の死体を撮り続けてきた者はいないと言われている。
彼は或る海外のインタビューでこう答えていたのが印象的である。
ーあなたは、どのような死を迎えたいですか?
「苦しみ抜いた末に死にたいね。だってそうだろう。僕は植物の死体を撮り続けて来ただけではなくて、僕は植物を殺したその死体を食べて生きてきた。僕は5年前からヴィーガンで、植物をしか食べていない。人に食べられる植物は半数以上が、生きたまま解体されて、そして殺されている。でも僕は植物を食べなくちゃ生きて行けない。試しに断食をして、水だけで生きて行けるかどうかを遣ってみたことがあるが、本気で死にかけた。そんな僕に楽に死ぬ資格なんてないし、楽に生きて死にたいなんて想ったことはない。人間の死体写真家である釣崎清隆も『安らかに死にたいとは想わない。』と言っていたが、僕は彼のことを心からリスペクトしている。一方で、惨殺された動物の死体(食肉)の写真を撮り続けている動物死体写真家のChurichaki Chiyopakaは、『俺はとにかく楽に死ねたら何でも良いね。』と答えていた。この違いが一体何なのかはわからないが、僕はChurichaki Chiyopakaのように無責任に生きて無責任に死にたくはないんだ。植物の惨殺死体を食べ続け、植物の惨殺死体を撮り続けて生きることのそれなりの覚悟を、動物の惨殺死体と植物の惨殺死体を食べ続ける肉食者たちにも伝えて行きたいと想っている。」

ーところで…話は変わりますが、植物は一体どの時点で、死ぬと想われますか?
『僕は植物の死と生を、明確なものとして感じ取っている。例えば生で切り刻まれた胡瓜の死体は、確かに死体であると感じる。でも僕のなかで、2種類の死体がある。それは”生きている死体”と、”死んでいる死体”。その2つは目に見える違いではなくて、僕のなかの感覚的なものである為、人にどう説明したら良いのかがわからない。そして同じように生で切り刻まれた胡瓜のなかにも、”生きている”ものがたくさんいる。彼らは人間の胃のなかで消化されても生きている。生きている状態のままで、人間の血肉として取り込まれ、人間と一体となる。でも多くの人はその違いに気付かないから、植物は人間の体内に入れば確かに死んでしまうのだと考えている。だからこれまでうんざりするほどに植物を食べることと、植物の死体を撮り続けて生きることについて散々に非難を受けてきた。僕は確かに、死んでいる植物を選んで撮り続けて来た。でも植物の死体を食べることを出来得る限り避けてきた。現に死んでいる植物を食べても人間の栄養にはならないどころか、寧ろ食べないほうが良い。人間とは食べたものでできている。死体を食べ続けて、人間が生きた者としてできあがるとは想っていない。僕は自分が生きているからこそ、”死体”と、”死”に惹かれるのではないかと感じる。僕は自分が死体で在り続けることが嫌になり、人間の死体と全く同じ死体現象を辿って自分の腹のなかで腐乱死体と化してゆく動物の死体(食肉)を食べることをやめた。僕は植物が生きているからこそ食べる。でも動物の死体は、生きていない。生きてはいないものは、人間が”生きるため”に、食べるべきものではない。それでも、動物の死体をあえて食べ続けてゆくのであれば、動物が殺されてまだ間もない時から、刻一刻と腐乱してゆく様を、自分の目で観察してみて欲しい。何故ならその現象は間違いなく、君の腹のなかで起き続けている現象であるから。」

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