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PGT-A凍結胚盤胞グレードAA、着床しなかったよ。つらつらと。



第2子移植の判定日だった。

2021年4月に採った私の卵子は顕微授精を経て7つが胚盤胞になり、PGT-Aをして染色体異常のない3つの胚盤胞が移植可能な胚盤胞として凍結されていた。

そのうちの1つは2021年5月に移植をし、2022年1月にかわいいかわいいわたしたちの子どもとしてこの世に誕生した。

今回移植したのは残り2つのうちの1つだった。
染色体異常もなくグレードもAA申し分のない胚盤胞。
私の体も断乳して約1年。
正常にきちんとした周期で生理もきていて、子宮内膜の厚さもホルモンの値も問題ない。
自信があった。きっと大丈夫。
1人目も一緒に採って一緒に成長して一緒に胚盤胞になって染色体検査を経て、産まれた。
きっと大丈夫。

「うちの病院ではPGT-Aをしている方の卒業率は80%です。」

先生もこう言ってた。
大丈夫、大丈夫。

つわり、乗り越えられるかな。
娘はお姉ちゃんになるのかあ。
楽しみだな。

そんなことを考えながら1週間過ごしてた。

病院に行く準備をして家を出る前にトイレに行くと出血があった。

うわー。生理だ。

そう思った。
着床出血だと願ったけども、過去にあった着床出血とは少し違う出血の跡。

ベルが鳴り、診察室に入る。
パソコンの画面に映るのはhcg0.5

「残念な結果なんですよね…。」

そう言われた。
あー、そうですよね。家出る前に出血してたんです。
そう伝えて、次の治療についていくつか質問をして診察室を後にした。

ある程度覚悟が出来ていた。
なんだかそんなに落ち込まなかった。
とりあえず家で娘を見てくれている夫に電話をして、遠くに住む仕事中の母に電話をして、現状を整理した。

近くの百貨店によって、欲しかったシャンプーとトリートメントを買った。
ついでに母の誕生日が近いので母にもシャンプーとトリートメントと美容液を贈った。

昔からそう、
なにか嫌なことがあると散財をする癖がある。
買い物を終えてから気づいた。

それから美味しいご飯をゆっくり食べて、ネイルに行った。

自宅に帰ると可愛い娘と優しい夫が待ってて、一緒にお庭に出て少し遊んだ。

なんだか今日はなんでもない日で、ただ買い物をして1人でランチして、ネイル行って。
リフレッシュできた幸せな1日に上書きされた。

次の日、夫の出勤時間に合わせて娘とお散歩に出かけた。
駅まで一緒に行き、その後は近くの神社でひとしきり遊んだ。

階段を登り降りする娘のお尻近くで構えながら見守り、砂利の上をハイハイしたり歩いたりして遊ぶ娘の袖を捲り、時々口に運ぼうとする石を払いのける。
そして、楽しそうに遊ぶ娘の姿の動画や写真を夫や母に送る。

自宅に戻り、娘におやつをあげながら私もコーヒーを飲んだ。

急に涙が出てきた。

幸せだなあ、と。

この子を授かるまでとても辛く苦しく、出口の見えないトンネルだった。

半年、自然にできるのを待ち、半年、ホルモン治療。
造影剤の検査は吐き気が止まらず、自力で動けずに半日病院のベッドで横になった。
卵管の手術をしても卵管の癒着は治らず、体外受精一択になった。

わたしは幼い頃4度の開腹手術をしている。
おそらくそれが原因ではないか。
そう言われた。

自分が自然に子どもが出来ない体なんだ、って認めるまでに時間がかかった。つらかった。
認めたくなかった。
みんなと違うんだ、って涙が出た。

次から次へと産育休に入る職場の人たち。
子どもが産まれるんだ、そう伝えてくれるこれからパパになる人たち。
出来ないと思ってたけどすぐ出来ちゃって、照れながら話す私よりもずっと年上の先輩。

みんなキラキラ輝いて見えた。

仕事を辞めるしか、病院に通えない。
体外受精をしてるから休みたいなんて…言えない。

新卒から入社して長く続けた仕事。
私も育休とりたかったなあ。
辞めるの、嫌だなあ。

そう思い、少しだけ面識のある人事課長に電話をした。

今までの経緯、治療のこと、急に病院に行かなきゃいけなくなること、全部話した。
わたし、子どもが欲しいんです。
仕事を辞めないと病院に通えずに子どもが出来ないんです。
そう伝えた。

3ヶ月だったら、無給だけどお休みできるようにしましょう。
そう言ってくれた。
今ほど、不妊治療について話題性もなかった2019年の冬だった。



そこから3ヶ月、休みながら治療し、
妊娠した。
悪阻で水も受け付けずにフラフラで入院した。

入院して2週間経った、8週と3日。
入院中の定期健診。
赤ちゃんに会えるな〜。
ウキウキでエコーをしてもらう。

先生が2人で話してる。

「ないね、ないよね…。
心拍、ある?ないよね…。」

理解できなくて意味がわからなくて、朝食を全部もどした。
息ができなくて、過呼吸になって個室に運ばれた。

妊娠したら産まれてくるのが普通だと思ってた。

担当医に、どうしたいですか?と聞かれ、

「家に帰りたいです…」

そう伝えた。

ゴールデンウィーク明けに手術をした。

それから2度目の採卵と2度目の移植。
2度目の妊娠。

そして2度目の流産。

今度は9週と2日。

不妊治療のクリニックから卒業して、
産院で分娩の予約をしに行った日。
エコーを見てもらうと

心拍が停まってた。

それから残ってる1つの胚盤胞を移植。
もういつだったか覚えていない。

陰性。
グレードは低かった。

「若いんだから、大丈夫。」
「まだ若い。」
「これからあるよ、若いから。」

先生にそう言われるたびに苛立った。

「ここに来てる人の中では若いかもしれないですけど、ここに来てる時点で、他の人と同じじゃないんですか。若くても子どもが出来なくて苦しいのは同じじゃないんですか。若いからって言葉使わないでください。」
涙が出た。

どこに進んだら良いかわからなかった。
トンネルからずっと出られない。
なんでわたしだけ。
悲しい、つらい、苦しい。

夫には
「2人で生きるのも楽しいよ。
辛かったら治療やめてもいいよ。2人でいろんなところに行って美味しいもの食べて生きていこうよ。」
そう言われた。

「不育症の検査と染色体の検査をしましょう。」

出来る検査は全部した。

高額になるけど…と言われたPGT-Aの検査にも出した。
初めて1回の請求が100万超えた。

「個人宛のこんな請求書、見たことないね。」
そう笑って言ってくれる夫。

私の体のせいでごめんね。
そう思った。

働かないと。
働かないと不妊治療を続けられない。
やりたい検査を気兼ねなくやるためには働かないと。
採卵が始まると仕事との両立ができなくなる。

わたしはまた人事課長に相談した。
前回から1年経っていた。

コロナ禍でオンラインでも顔を合わせられるのが当たり前になっていたため、zoomで話すことにした。

前回相談してからの経緯、今の状況。
スケジュールの調整が難しいこと。
全て話した。
泣いてくれた。私のために泣いてくれた。

「フレックス制にしよう。そして、課題はあるけれども同じような悩みを持つ人のために何か制度を作ろう。」
そう言ってくれた。
不妊治療について毎日のようにニュースで取りあげられていた時期だった。

2021年5月。
4日目で胚盤胞になった正倍数性、グレードAAの卵を戻した。

怖かった。
また流産するんじゃないか。

また悲しい思いするんじゃないか。

着床した。

喜べない。怖かった。
いつ心拍が停まるのか。
不安でいっぱいだった。

不妊治療のクリニックを卒業して、出産するクリニックでも2週間に1度、通った。
健診のチケットがなくなって自費での健診になっても2週間に1度。
生きてるか確認したくて通った。

2022年1月、30時間の陣痛を経て、出産。
2520gの少し小さめの女の子。

肌が白くて、小さくて。
助産師さんたちが
「赤ちゃんじゃなくて白ちゃんだね。」
そう笑ってわたしの胸にそっと寝かせてくれた。



幸せだなあ。今。
そう思った。

夫の出勤に合わせてお散歩に行くのも。
神社で遊ぶ娘の後ろにくっついて見守るのも。
袖の裾を捲るのも。
口に運ぶ石を払いのけるのも。

幸せだなあ。

おやつを両手に掴み頬張る姿も。
口いっぱい入れすぎて出しちゃう姿も。

かわいいなあ、幸せだなあ。

そんな風におもってたら
涙が出てきた。

大切にしたい。

今回の移植が上手くいかなかったって、
メソメソしなくなった。

メソメソ落ち込んでなんかいられない。
この子がいる。
そんな時間もったいない。
この子と笑っていたい。

わたし、お母さんになったんだなあ。
そう思った。

そして弟か妹、

頑張るからね。
まだ時間はある。
ダメだったらまた移植すれば良い。
上手くいくまでやれば良い。
メソメソ泣いてなんかいられない。
落ち込んでなんかいられない。

いつも笑わせてくれてありがとう。
生まれてきてくれて本当にありがとう。

愛してるよ。
ありがとう。

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