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私の履歴書

学生バイト講師のこと

私が大学に入ったのが1993年4月。その前月の3月から、塾で講師を始めました。小中学校の同級生からの紹介で、当時時給が安いと評判の少人数制の塾でした。私は数学がまったくダメな典型的な「私文」でしたから、国語と英語の筆記試験を受け、英語を中心に教えることになりました。ただし、実家に近いということで希望していた熊谷の教室ではなく、同じ高崎線の沿線の吹上校で教えるという話になりました。

この塾には5年間いました。初めは吹上校でだけ教えていましたが、その後、上尾校と桶川校でも教えるようになりました。これは吹上校の塾長が沿線の塾長を統括する管理職の方だったため、高校生の英語を教えられる講師が少ないという事情があってのことだったようです。このため、当初は中学生と高校生の英語を中心に、講習期間中は小学生の国語や算数も教えていましたが、次第に高校生の英語のみの担当になっていきました。途中で2か月ほど高校の日本史を教えたこともありました。

突然専業講師に

学部卒業後は大学院で認知言語学を専攻しようと思っておりました。そのため、バイトとして講師を続けようと考えていました。ところが院試は不合格。最終合否が3月初めでしたから、普通の就活はもはや難しい状況でした。合格発表を見に行った帰りの井の頭線某駅からPHSで家に報告の電話を入れたときに母親から「とりあえず食べさせることくらいはできるから」と言われたものの、学生時代からの需給の安い塾だけではあまりに収入が少ないので、講師の仕事を増やそうと思い、いくつかの講師募集に応募しました。その結果、学生時代からの塾に加え、南関東に校舎展開していた現役予備校と、地元にその年の春できて塾でも教えることになりました。現役予備校のほうは、八王子校と藤沢校へ出講。当時は湘南新宿ラインも上野東京ラインもない時代ですから、熊谷からは遠かったです。地元の塾の方は、毎月『英語教育』『現代英語教育』『新英語教育』の取り置きをお願いしていた地元の書店の店長さんが取引先だったその塾を紹介してくれました。こうして塾や予備校で英語を教えることを生業とするようになりました。

昼の講師デビュー

とはいえ、高校生相手の夜の授業だけで週5日でしたから、稼ぐには昼間授業を入れなければ、と思うようになり、引き続き講師募集に応募を続けました。しかし、熊谷から八王子や藤沢への慣れない移動で心身の消耗が激しく、こんな仕事を続けられるのかなと不安に思うこともありました。結局、この現役予備校は1年で辞めることになり、地元の塾も経営方針が変わって高校生の授業を対面授業からサテライン中心に変えることになり退職。その代わりに靖国神社の近くにあった医系予備校と、中央線沿線に本部のあった、今でいう黄色い看板の予備校に出講することになりました。前者の医系予備校は人間関係に恵まれて、授業も楽しくできたのですが、経営的にいろいろありました。校舎の予備校では、業界の闇を見ました。このときから1年半ほど、新幹線通勤をしており、授業の準備を新幹線の車内ですることも多かったです。

当時の授業のこと

私は塾や予備校の講師というのは、担当教科をよく勉強していて、その知識を用いて授業を行うものだと思っておりました。そのことは基本的に今も変わりません。最初に出講していた現役予備校で一緒になった先生からは、そのことの重要性を毎週指摘されていました。いつもロング缶のキリンビールを奢ってくれるいい方だったのですが、大宮で乗り換えるときに尿意を催していつもトイレにダッシュでした(その先生は宇都宮線でお帰りでした)。ところが、その後出講した予備校では、講師の専門性をあたかも蔑ろにしているかのような雰囲気が漂っていました。まともに勉強している者からは教材の記述内容に不備があることが明らかであったにもかかわらず、それを指摘するのは体制批判だという空気がありました。このモヤモヤが晴れるのは、この予備校を辞めて次に出講した怒濤の予備校で出逢ったある先生とお話しするようになってからでした。

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