余命14日間の彼女と、青信号を渡れないボク *10話*
魚の群れの間を通り抜け、海の底へと進む彼女の姿を覗く。岩肌に手をつき、流れるような動作で黒い姿を掴むと、地面を蹴り、浮上してくる。
「ぶは!!!」
大きく息を吐きだして、水面から現れた。
「採った?」
「はい!」
ラバーの手袋に突き刺さったまま、棘だらけの姿を僕に誇らしげに見せた。それを受け取り、裏返し、固い殻の隙間にナイフを突き刺して半回転させる。痛みを感じたのか、必死で棘を振り回されたが、外側のヌタを除き、内側にあるオレンジ色の塊を指先で抉り出した。塊を潮の水で丁寧に洗い彼女の前に見せる。
「手を出して、最高に美味いから」
両手をおずおずと差し出した小さな掌に、つい先程まで海の底に居た雲丹の身をひとつ乗せた。キラキラと輝くオレンジ色の塊を、啜る様子を眺めた。眼を閉じて、感嘆の声を漏らす彼女の幸せそうな姿。
「...美味しい..」
口に入れた物全てに、彼女は感動を憶えるのではないかと思うほど素直な言葉だ。
「わたしね、この町が好き。この海も、あの観音様の灯台も、ヒカリゴケがあったあの沼も、全部好き」
「おれも、好きだよ。この町が、好きだ」
くったくなく告げる彼女に呼応するように思いがこみ上げる。抑え込んでいたこらえていたものが一気に溢れてきて僕を沖へとさらっていく。
「コンビニができていたんだ。あずみの駅前にさ。僕がいた5年前はまだ無かった。道も建物も変わってさ。勝手知ったるこの土地は、いつか全然知らない場所に変わってしまう……。きっと、またここを離れたら、僕が知っている”あずみ”じゃなくなってるんだろうね」
玄関先の地図に親父が、成約を告げる花丸をつける時、僕はいつも物陰に隠れて見ていた。親父は壁に描き終えると逃げるようにその場から離れていく。消した土地の名を見ないように、壊したものに気づかないように。それはきっと自分が破壊者であることをわかっているからだ。変化を嫌う人間に自分がどう思われているか知っているから目を背ける。
だから親父は、僕と目を合わせない。
僕の知る世界を変える親父を憎んで、新しいものに流されるくせに、性根は古臭いままな姉を見下して、嘘だらけの人間が評価されるこの場所が心底嫌いだった。
この先もこの街は親父みたいな奴らによって捻じ曲げられていく。進化とか、新開発だとか綺麗事のネームプレートをぶら下げて、僕みたいな人間には蓋をして、見なかったことにして、新しいもので埋め尽くしていく。
「嫌なんだよ。何も変わってほしくないんだよ、ずっと一緒がいいんだよ……」
彼女に縋った。そんなことをしても何も変わらないのに、答えなど出ないのに、僕は彼女に縋りついて懇願する。彼女の柳腰を抱きながら、柔らかな声に耳を傾ける。
「蒼央さん……。街も……人も成長していくんです。きっと今も変化してる。私たちが見ているこの景色もそう。少しずつ少しずつ違う景色になっている。それは東京みたいな大きな場所より、ずっとゆっくりだろうけど、変わってるんです。気づかないぐらいに小さな変化でも、わたしたちの見ている世界は、昨日と同じじゃない。だから蒼央さんも止まらないで、前に進んで?」」
時に身を委ねたら、楽になれるのだろうか。
時間があれば僕は、変化することができるのだろうか?
僕が知る街が全て消え去って、全く別の街になることを許せるだろうか?
「受け入れられないのなら、この海の生き物みたいに、鋭い棘を動かして必死に抵抗するしかないんですよ」
屈託のない顔で彼女は微笑んだあと、赤茶色の小さく残ったカケラを僕の手のひらからペロリと舐めとった。再び瞼を閉じる彼女を眺め、堪らず、肩を掴んでこちらを向かせた。
ほんの少し愕いた瞳。まだ其処にいるだろう彼女の中にある海の生き物に触れる。舌先に感じる独特の香りが、潮の香りと共に鼻腔を抜けていった。甘く溶け合うのは彼女なのか、それとも抗った生き物の肉なのか……。
「志歩ちゃん...。君だけは変わらず、僕の傍にずっといて」
唇の隙間から、自分の素直な気持ちを伝える。彼女にとって、僕と過ごす時間は彼女の人生にとってたった一瞬の出来事だ。でも僕は永遠にしたかった。
「うっ」
小さく漏らした嗚咽に気づき、彼女の唇から離れた。瞼を閉じたまま、頬を流れる温かな涙に気づいた。
「……ごめんなさい」
小さく呟き、僕から離れていった。
頬を照らす、陽光。徐々に地平線へと近づく其の姿へと視線を向けた。赤く染まる太陽は、無情なまでに終わりの時間を告げている。この光が消えた時、彼女にもう二度、触れられなくなる。岩場を足早に登り、漁場のゲートを目指す彼女を追いかけた。
「志歩ちゃん」
彼女は振り返らない。慎重に足元を確かめながらも、この場所から離れようと進んでいる。一歩一歩、確実に彼女に触れるまで追いかけてゆく。志歩ちゃん。志歩ちゃんと、何度も彼女の名を呼んだ。振り返らない背に向かい名を呼び続けた。
「志歩ちゃん」
彼女の腕を掴んだ途端。彼女はしゃがみ込み泣き出した。
涙を零す彼女の肩に触れる。小刻みに揺れる身体を包むように抱きしめた。
本当の馬鹿だって、きっと誰もが僕を怒るだろう。
でも、言わずにはいられなかった。このまま「さよなら」なんて言えなかった。
「帰るなよ...」
僕の呟きに、声を上げて泣き出した。膝を折り、彼女を包み込む。鼻を啜り押し殺した泣き声は、僕の胸元に落とされている。ラッシュガードの薄い布を強く握り締める彼女に想いを告げる。
「....帰るな」
心の激情を言葉にするだけで、止め処無く、涙が零れ始めた。
「志歩ちゃん....ここにいてよ.....」
自分の頬を流れる涙を拭うこともせず、再度彼女の顔へと近づき、唇を重ね合わせた。ぐしゃぐしゃになった顔をしているのは、僕と、志歩ちゃんで、涙でも、先ほどまで身体を満たしていた海水でもなく、柔らかく溢れる水が溶け合って二人の隙間を埋めるように繋がらせた。
「....駄目なの」
強く僕の胸を押して彼女が離れた。
首を左右に振り、両肩を強く抱きしめる彼女に、「何が駄目なの...?」と、問う。彼女の涙の意味は、僕が好きだという証拠じゃないのか?
「さよなら、しかないの…」
震える声で彼女が答えた。我侭だってわかってる。
彼女と僕との熱の差は、変わらない。
けれど、流す涙の意味、僕を受け入れるキス。この場所に、立ち止まっているのは、ただの彼女の優しさだけじゃない理由があるはずだった。彼女ではどうにもならない理由は余命のせいなら、その最後の日まで一緒にいたい。でももし、そうじゃなくて、別の理由があって、素直になることを、思い留まっているのなら、真実を聞きたい。
「僕のことをわかってくれたように、僕も受け止めるよ、志歩ちゃんの全て」
僕の言葉に、彼女は黙り込んだが、首を左右に振る。感情の昂ぶりで震える唇の隙間から、苦痛の表情で僕を見上げた。大粒の涙が、まるでガラス玉のように何処にも触れずにボロッと落ちた。
「……なんでだよ」
「信号はもう青なんです。だからもう渡らないと。私も蒼央さんも」
彼女の言葉を上手に飲み込めない僕は、喉の奥に突っかかった反論をうまく取り出せずに、涙だけをこぼしてうずくまった。
「...駅まで、送ってくれませんか?」
熱に浮かされてたのは、僕だけで、これ以上の展開はあるわけないってこと。一瞬見た、夏の夢ってこと。進まなくちゃ。そう本能的に動いて、僕は「立ち入り禁止」と記載された扉を押した。
駅前のロータリーにひっそりと光を落とす街頭は、球切れ寸前なまま点滅を続けている。
カチ、
カチ、
カチ、
小さなリズムを刻む光の下で、彼女の手を握ったまま、僕はその手を離せず、彼女の困惑した表情を見つめたまま、別れの時間を過ごしていた。「離して」も、「もう行くね」も言わずに、僕の手が離れるのをただひたすら待っている。
僕は歳だけは一人前だけど中身は子供で、せっかく手に入れた彼女との時間が終ってしまうなんて耐えられなくて、彼女を困らせていると判っているのに、「さよなら」が言えずに此処にいる。
駅のホームへと列車が入り、発車ベルが鳴り響く。このまま、最終列車が通過するまでこの手を離さなかったなら、彼女は考えを変えるだろうか?
もう一度、「帰らないで」と告げたなら、僕の想いを受け入れるだろうか?
不意に彼女が僕の手からすり抜ける。逃したくなくて、彼女の手を追いかけると僕の人差し指をキュッと握った。
「昔ね……友達に妹が産まれたからって見に行ったことがあって。生まれて間もない赤ちゃんは、まだ小さくて、手なんてふかふかの大福みたいにもちもちしてて。笑いかけてくれるだけで、幸せを分けて貰えてる気がした。」
彼女の過去の話に耳を傾ける。踏切の上を軽トラがガタガタと身体を揺らして、通り過ぎていった。車のテールランプが駅のホームのほうまで届いて、彼女の制服のプリーツスカートを赤く染める。
「赤ちゃんがね。握ったの。私の人差し指をね、こうやって握ったの。」
真っ黒な線路の奥の空が明るくなった。駅舎に列車が来ること知らせるアナウンスが流れた。
「ここにいるよ。だから見失わないで。ちゃんと見てるからね。そう言われてるみたいだった」
踏切に遮断機が降りてくる。鋭い音を響かせて警報器は明滅を繰り返す。心臓の鼓動のように、光が僕と彼女の頬を赤く照らした。何度も何度も僕らを赤に染める。
「あなたの道は、私が照らし続けます。蒼央さんのそばに……いるから。だから、止まらずに進んでください」
———— 君を待ってる。
この手は、離れても繋がってるんだって……ずっと信じて、待ってる。そう告げたいのに、彼女の前に進もうとする意思を邪魔できずに、言葉を飲み込んだ。
胸の奥が強く痛む。全身が心臓の鼓動を刻み始めたかのように、ドクンドクンと脈打っている。頬は赤く染まっているのに、海ほたるが、心臓の中に入り込んで、青い光を代わる代わる光らせているかのようだった。冷たい海水の中で泳ぐ彼らは、僕の意志を無視して暴れ続ける。
「蒼央さんのアオは、【しんごうき】のアオは……、止まらずに進めのアオ。でしょ?」
駅のホームに列車が滑り込んできた。彼女の制服の白いスカーフを風に乗せる。黒髪が揺れる。俯いたままの彼女の顎の先を持ち上げた。ただじっと僕を見上げるその瞳は、何もかもを受け入れたかのように動かない。とろんと濡れた瞳の中には、もう何もなかった。桜色の艶めいた唇にそっと触れて、気持ちを押しこんだ。
淡い珊瑚の煌き。海の底で、泳ぎ回る魚達の中で、しなやかに踊る彼女の姿。青い光を纏った頬。赤く染まった舌先。何度も吸い上げては味わう。
彼女と過ごした群青色の海と、儚い蛍が見せてくれた夏の記憶を、僕はこの先も永遠に抱きつづける。
発車を知らすベルが鳴った。僕は彼女の握る指先を離す。
乱れた髪の彼女が、僕を濡れた瞳で見つめたあの夜は、戻れない彼女との時間となった。群青色の海と、儚い蛍が見せてくれた夏の記憶を、僕はこの先も抱くんだ。彼女の指先の温もりから離れ、言葉を振り絞った。
「さよなら……志歩ちゃん」
強風が止み、荒れ狂っていた海は穏やかになった。町人は、ひとり高台へと残った女のもとへとやってきた。雪のように白い、観音像を見た町人はどんな思いを抱いたのか、分かりたくもない。その切ない思いなど、永遠に、知りたくなんかなかった。「ゴーストシャーク」の前に一台の白いバンが止まっていた。姉は、一体何を今度は言いに来たんだろう。
「悪かったわね。勝手に上がって」
姉は僕の部屋で待ってた。ささくれた畳の上に、胡坐をかいている姉の前に湯のみが一つ置かれてた。どうやら、誰かが、部屋へ招き入れたんだろう。
「なんだよ」
ぶっきらぼうに言って、たてつけの悪い、窓を開けた。潮風が流れ込み、部屋はほんの少しだけ涼しくなった。窓の外の月を眺めた。涙でゆがんでいた月は今は、まん丸かった。
「あの子は?」
知った素振りで姉は言う。会ったのか、会ってないのか。そんなことを聞いたって、今更、しょうがない。
「振られた」
「ふーんそう」
姉は、弟の恋愛など対して興味もないくせに、妙に誇らしげな笑みを浮かべる。
「なんだよ女がいるかどうか、確認しに来たわけかよ。こんな狭い土地じゃ、世間体は、命の次に大事だもんな」
「ここが嫌なんでしょ。どこを歩いたってあんたのことを誰かが見てるそんなの耐えられないって、だから東京に行ったその気持ち、わかるわよ。でもね、お父さんだって、そうなのよ。
倒れるほど働いても、この町をよくしようと頑張っても、周りからは古いものを壊す非道な人間だって言われてさ。それでも、あずみのために頑張って、踏ん張って踏ん張って、ようやく認められ始めたのよ。
それなのにあんたはお父さんのこと…わかろうともしないで、ほんとあんたって、親不孝もの……ばか」
姉は静かに泣き出した。その泣き声は、七日目を迎える油蝉よりもか弱かった。今にも死にそうなほどに、弱弱しい声で命が尽きるまで、鳴き続けてる。
最期まで喚き続けなくちゃ、死ねないんだろうか。最期まで足掻かなくちゃ、生きてるっていえないんだろうか。短い寿命を与えられた虫は十分すぎるほどに、その命の限り泣き叫ぶ。じゃあ、長い寿命を持つ人間である僕は、いつ叫べばいい?
「そんな窮屈な街だったから、お父さんは変えたかったのよ。あんたが望む大都会になることは叶わないだろうけれど、それでもいろんな人がいる町をつくろう、東京みたいに魅力的な街にしたいって頑張ってきたのよ。そうすれば、あんたが帰ってくるんじゃないかって」
「馬鹿なの? 勝てるわけないだろ」
「でもね。わかってほしいの。お父さんの気持ち。この町を離れるならそれでいいわ。ただ苦しんでるのは蒼央あんた1人じゃないんだから」
涙を落とす姉は、自分の拳で頬をぎゅっと拭った。泣き顔を見られたくないのか、姉はずっと顔を上げようとしない。僕はそれに気づかないふりをして、闇に浮かぶ月を見つめ続けた。
さっきまで丸かった月は、今はまた歪んでて、妙に黄色がかっている。姉の気配がゆらりと動く。パチンと音がして、ちゃぶ台の上に何かが弾けた。
「お父さんのバイク。ガレージに入ってるから。この街じゃ足がないと生きていけないでしょ」
ちゃぶ台へと首を動かした僕に、障子がするすると音を立て、足音がだんだん小さくなる。気づくと蝉の音は、止んでいた。
盆休みを過ぎた後の閑散とした海は物哀しく、流木が目立つ浜辺は、夏の終わりが近づいていることを告げていた。照りつける太陽は健在だったが、僕の心の中は既に夏を終えていた。小瓶の中へと乾燥させた海蛍の死骸を詰めながらネットで黄虎と六郎に連絡を取る。
黄虎は親父の会社を継いで、ネット関連の仕事についたらしい、六郎は、今は不動産屋の営業の仕事をしている。ビール片手に彼らと顔を合わせたのは、「しんごうき」の今後について話をする腹が決まったからだ。
「というわけで、しんごうきは解散。YouTubeのチャンネルは閉鎖。でいい?」
「構わないけど、せっかくだし、チャンネルはアオが使えばいいじゃん。最初からってなると色々大変だろ?」
「それはありがたいけど。でも心機一転、0から始めたいから」
「ひょー。やる気満々じゃーん」と黄虎が煽る。なんだか黄虎の煽りが懐かしくてむず痒い感覚を覚える。
「……っへへ」
「蒼央、マイクとかカメラとかたくさん機材あるからさ、今度東京来たときにでも撮りに来いよ」
と六郎がいう。
「……サンキュ。助かる」
「まああれだわな。僕らみんなバラバラになったけどさ、いろんな道があるってことだよな?」
5年間続けてきた【しんごうき】は終わってしまったけれど、もう未練はなかった。また新しいスタートを切ればいい。この古臭いことにまみれた土地で何かを始める。志歩ちゃん。これが僕なりの青信号の渡り方だよ。
小瓶が満杯になったので、コルクで蓋をする。パソコンをいじると動画ファイルを開いた。そこには、志歩ちゃんの姿が映っている。彼女との時間は画面の中に閉じ込められたままだ。この街が変わったとしても、彼女との思い出は永遠に変わらない。
そしていつか志歩ちゃんがこの土地へとやってくる日が来たなら、また青く染まる海を見せてあげたい。その景色を志歩ちゃんが僕じゃない誰かと一緒に見ることになっても、あの日見た景色をこの街に残せるなら僕はそのためにできることをしたい。そんな気持ちを抱きながら、海ほたるの死骸の詰まった小瓶を見つめる。
「もし海が荒れてても、奥の手があるからおっけー」
「おーい、何やってんの?」
海斗がため息まじりにトングで僕の尻を叩いた。
「忘らんないのか? 志歩ちゃんのこと」
「うるせえよ」
わかってる。志歩ちゃんのことは、もう忘れなくちゃいけないって。でもそう簡単に忘れられるはずもなかった。今でも彼女が笑顔で接客をする姿が目に浮かぶ。夜の海ではしゃぐ彼女の姿を思い出せるから。
「いっそ、俺の記憶を消してくれよ 」
海斗の背後から、ユタさんが出前用のケースを抱えて近づいてきた。
「蒼央、出前、いい? 丘の上平和病院の外科病棟から、冷やしチャーシュー麺大盛り一人前。今度こそ、氷が入っているものを届けろってさ」
ユタさんからカウンター越しに声をかけられた。
「また僕?」
「親父からバイクもらったんだろ?」
「あ、じゃあさ、僕の昼飯、テイク用の器でもらっていい?」
と、ついでにユタさんにお願いをする。
「行くんだ」
とユタさんが目を見開いた。
「バイク、あるからな」
ぼそっとこぼスト、ユタさんが嬉しそうに目を細めて笑う。僕の昼飯と、プラスティックの簡易ケースに入ったラーメンの器を入れる。
「リベンジ行ってこい」
ユタさんのでかい手で背中をバシンと叩かれてしまい、急ぎ気味にパソコンを閉じて小瓶を胸ポケットへと入れた。
冷やしチャーシュー麺を頼んだのは、外科病棟、循環器科の医師だ。バイクが壊れたあの日、「帰れ」と言ったあの医者様、先生様だ。あの日の想いをぶつけるべく、バイクを飛ばす。医務室へと完璧な状態で、でっかい氷入りの冷やしチャーシューメンを届けた。
「はい、どーも」
と、あっさりとした返事が戻ってくる。僕の手に、ぴたりの金額を乗せたあと、応接室のテーブルの上でラーメンを啜り始めた。顔をふと上げて「あれ?まだいたの」と、冷ややかな視線を投げられたので、「あざっした!」と元気いっぱいに挨拶をして医務室を後にする。
「えっ。蒼央?」
親父の病室の廊下で、姉が僕を見た途端に、なんでここにいるの?と言わんばかりに目を丸くさせた。姉貴はいつも僕が病室に来ることに驚きを見せる。今までどれほど親不孝だったのか想像すらしなかったけれど、僕は相当ダメなやつらしい。
いつか普通に僕を迎えて欲しい。そんな気持ちも込めて、デリバリーバックから僕の昼飯を取り出した。
「おまちどうさまでした、ゴーストシャークオムライスでーす!」
とオムライスの入ったケースを姉に差し出す。
「え、頼んでないけど」
「じゃあ、誤配送だな。もらっといて。あ、サービスの水、客に渡すの忘れてたわ。姉貴にやるよ」
とゴースト水というラベルが貼られたペットボトルを姉に差し出す。
「いらない。あんた飲みな。水分補給しないと、若くても死ぬから」
ユタさんのモテテクなら、姉貴を攻略できるかと思ったが、やはりイケメン限定なのだろうか。仕方なしにペットボトルを再びデリバリーバックの中へと戻した。
「お父さん、起きてるよ」と姉貴がこっそり囁いた。
病室へと入ると、タブレットをテーブルの上に置いて動画を見ている親父の背中が見えた。芸人が楽しげな何かをチャレンジしている。
「あと1分切ったー!! いけるか? チャレンジャー!」
と画面から音声が漏れ出ている。
「その人、マックス小林って言うんだよ」
僕の声に気づいて親父は、慌ててタブレットを消そうとした。だが、消しきれずに、布団の上にタブレットが落ちて、画面がこちらへと顔を向けている。
「前に、その人と対戦したことあるんだ」
タブレットを布団の上から拾ってやる。ベッドテーブルの上に置いて、再生ボタンを押した。ワハハとユーチューバーイズミの楽しげな笑い声が病室に響き渡る。
「負けたけど……さ」
「接戦だったよな」
親父がボソッとこぼした言葉に、顔を上げる。
「お前の話、……聞かせてくれないか?」
少し早足で廊下を進んだ。思った以上に話し込んでしまった。やっと親父と対等に話せた気がした。多幸感に酔いしれながら、廊下を進む。
ガラガラガラと、ストレッチャーのタイヤが回転する音が廊下に響き渡っている。直ぐ脇に位置する緊急治療室(ICU)の扉が開き、年配の看護師が、近づいてくるストレッチャーを引き受けるために仁王立ちで待ち構えていた。
通りを占領するストレッチャーの周りを囲むように4人の看護師が、それぞれに、点滴やら、電子機器やらのコードを掴んだまま早足で近づく。
その脇を通れる道筋を見つけ、デリバリー用の保冷バッグを自分の胸の前に引き寄せて、通り過ぎるのを待った。
「志歩ちゃん!」
「頑張って志歩ちゃん!」
看護師の掛けた言葉に振り返り、ふと、横たわる細い腕に繋がる透明のチューブを眺めた。白く透き通る肌の少女が、天井から降り注ぐ照の光がまぶしいのか目を細め、険しい表情をしていた。
「志歩ちゃん!!!!」
僕の叫び声が、病院の廊下にこだました。
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