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なんとなく厄年

 厄年の起源はよく分かっていないようです。一応は陰陽道から来ているんじゃないかと考えられているようですが、あくまでも仮説のひとつに留まっているようです。

 起源がよく分かっていないから、どうして人間に厄年が設定されているのかも不明のようです。この時期に体調を崩しやすいとか、人生の節目になる年齢だとか、なんかいろいろ言われているようですが、どれも「多分こうだと思う」程度のものみたいです。

 ただ、平安時代には厄年という考え方があったようで、そう考えると日本人はもう何百年もの間、厄年というものを何となく気にして生きてきたわけです。こんなに続いたのは、ルールが分かりやすかったのも一因でしょう。一生のうち何回かヤバい年齢がある。順調に年を重ねていれば誰もが当てはまるルールです。

 当然、何となく生きている私にも厄年は何度かやってきます。私はいつものようにぼんやりとしておりますと、同級生の友人が話しかけてきました。何でも、旅行に行ってきたとのことで、おいしいお店とか有名なお城とかビックな神社とかを見て回ったようです。

 我々はどこかへ行くと互いにお土産を渡すのが通例になっていました。その時の友人も当たり前のようにお土産をくれました。やけに小さな、白い紙袋に入っている。中を見て納得しました。お守りだったんです。もうしっかりと「厄除け」と書いてある。「たまにはこういうのもいいだろ」と友人は照れくさそうにしています。

 普段は品も知性もない会話を繰り広げる友人がお守りを買ってくるなんて確かに少し意外でした。ただ、よく考えれば品や知性がないのと、信心深いかどうかはまた別の話です。「うんこの神様を心から崇拝する」みたいに品性のなさと信心深さが両立するパターンは存在するはずです多分。

 そうやって失礼なことを私が考えておりますと、友人は更にこう言いました。「それに俺たち今年は厄年だろ。もう終わりそうだけど」。

 確かにお守りをもらったのは11月でしたが、はて今年が厄年とな。来年が本厄だと思っていた私は首をかしげました。厄年システムをロクに把握していないのが友人にバレたようで、彼は私に厄年の説明を一から始めました。

「こういうのは数え年なんだよ」

 数え年、すなわち生まれた時を1歳として年齢をカウントするのが厄年の常識なんですが、当時は分かっておりませんでした。だから、生まれた時を0歳でカウントする方式で厄年を見据えていたんです。結果として、キッチリ1年数え間違えていた。分かりやすいはずの厄年ルールを理解していなかったんです。

 ところで、厄年の名物と言えば災厄の類です。私は友人に「今年何か酷い目にあった?」と尋ねました。すると、今度は友人が首をかしげました。どうも今年起きた不幸を一生懸命探しているようです。

「あると言えばあるけど、別にそこまででもないかなあ」

 大きな怪我や病気など「これぞ厄年!」と言えるほどのものはなかったようですが、そもそも今年に何があったのかも忘れかけている有様でした。「そのスタンスで厄除けお守り買ってきたんかい」とツッコみそうになりましたが、そう言えば私も今年は探せば酷い目にあった記憶はいろいろ出てくるけど例年通りと言えば例年通りという、要は友人と似たような状況でございました。結局、私たちふたりは厄除けお守りを前に小さな不幸を振り返るという、何をしたいんだかよく分からないことをしていました。

 ちなみに、厄年にはいろんなパターンが存在するようで、中には99歳とか105歳とか、辿り着くのも大変なものもございました。そこまで生きれば厄も何もない気がするんですが。105歳があったかと思えば、一方で7歳なんてのもある。厄年は意外と多彩だったんです。それだけいろんなパターンを並べればどれかの不幸と一致するでしょう。

 というか、もちろん厄年を心底信じている方もいるでしょうが、昔から多くの方は「当たるのか微妙だけど不幸は嫌だし、まあ一応お守り買っとくか。安いし」くらいのノリだったんじゃないかと思うんです。それくらいゆるいから現在に至るまで世間に何となく受け入れられてきたのかもしれないなあと、数え年も知らない自分のアホさから考えた次第です。

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