同じ標語で半世紀
たまに標語が載った看板を見かけます。学校のそばに比較的よく存在しておりまして、特に多いのが小学校、中学、高校となるにつれて数を減らし、大学ではまず確認できません。
標語の大半は5・7・5の川柳形式になっていて、時代を問わずどこに出しても何の問題もない、コンプライアンスに配慮しきった作品に仕上がっています。だから、学校も自信を持って掲げているのだと思われます。
しかし、私は小学生の頃、この標語というものを最初に見た頃からこう思っていました。「これを掲げることで何か意味があるのだろうか」と。もちろん、標語自体はどれも立派なことが書かれています。非常に教育的であり、教訓的と言っていい。ただ、子供心に「それは分かってるんだけどさ」と思っていたんです。例えば、標語の一大ジャンルとして交通安全がございますが、「交通ルールを気をつけよう」みたいな標語を街中に掲げたところで、それを見て「そうだな、気をつけよう」となる状況がどうしても想像できなかったんです。いや、中にはそういう方もいるとは思うんですけれども、わざわざ看板を作る手間をかけるほど交通事故数の低下に結びつくとはとても考えられなかった。
そもそも、標語がどこで生まれ、どういう選考を経て看板にされ、学校などに掲げられるのかも謎でした。気づくと学校の誰かが標語を書き、それが看板になってるんです。標語業界に暗躍する闇のブローカーでもいるのかというくらい、いつの間にか設置されている。今から考えると、こんなことを考える子供に「標語を書いてみないか」という依頼なんて来るわけがありません。依頼者は私のような小癪な子供は避け、もっと真面目でちゃんとした子供に標語をお願いしていたに違いありません。
考え方は人によって様々です。だから、私のように子供の頃から標語の意義を疑う人間もいれば、「標語は素晴らしい」と考える方々もきっといるはずなんです。そんな一団によって今も日々標語が生まれ、看板などで世間に公表しているのでしょう。当然、標語の力を信じているに違いない。
先日も、とある駅のそばを歩いていると標語を掲げた看板がございました。しかし、年代物の看板だと一発で分かるレベルだったんです。今じゃまず見かけない古臭いフォントでございましたし、看板自体も長年にわたって風雨にさらされていたためかチラホラさびていますし、あっちこっちボコボコにへこんでいます。更に、個人情報の保護が叫ばれる現在において、作者の名前がガッツリと出ている。それどころか学校名に加えて、書かれた当時の学年も記されているんです。学校名を調べたら、今も近くに存在する中学校でございました。
私が気になったのは「作者はどう思ってるんだろう」ということでした。看板の状況から考えて、設置されてから40年か50年は経っていてもおかしくない。その間、ずっと名前付きで標語看板が設置されているわけです。看板が出来た当初は、自分の作品が選ばれ、こうやって形になったわけですから、書いた本人としても嬉しかったに違いない。しかし、何十年も経てば人は余裕で変わります。中学生だった作者は思春期をとっくの昔に通りすぎ、孫がいてもおかしくない年齢になっています。
今も標語を誇らしく思っているのなら何よりですし、標語の存在を忘れてしまったとしても「まあいいかな」とは思います。問題は自分の過去作をちょっと恥ずかしいと感じている場合です。自分としてはあまり知られたくない過去なのに、標語は今も駅のそばで名前とセットで公開されたまま。看板のそばを通ることをためらうようになってしまったかもしれない。
大人になった今でも標語の効果を疑問視している、未だ小癪な私でございますけれども、少なくとも作者に影響を与える場合はある。いいか悪いかは別として、それが事実だと考えております。
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