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平凡で非凡な泡立て器

 自分の考えや言動が他人と重複する時があります。いわゆる「かぶる」というやつですね。何かを表現するなどオリジナリティが重視される場合には、あまり歓迎されない現象のようです。人とかぶるということは発想が平凡だと見なされ、酷い時にはパクり疑惑をかけられかねません。

 とは言え、同じ人間である以上、何かが似通ってしまうのは仕方がないと思うんです。それに、みんながやりがちな言動は「ベタ」と言われたり「あるある」と言われたりして多くの人の共感を呼び、大袈裟に言えばひとつの文化を形成するようになる。

 どんな状況でも多くの人がやりがちなことはあるはずです。つまり、何にでも「ベタ」や「あるある」は存在する。ただ、特殊な条件下での「ベタ」や「あるある」は、多くの人がやりがちなはずなのに、とても平凡な発想がもたらしたとは思えない妙な現象に見える場合があるんです。

 抽象的な内容ばかりだと書いてる本人も訳が分からなくなりそうなので、具体例をひとつあげましょう。友人が経験した話です。

 子供は夏休みになりますと、なぜか宿題と称して工作をやらされるものです。友人が小学生だった頃には、針金で何かを作れという宿題を課せられました。友人は夏休みの宿題を早めに片づけることができるという特殊な人類だったため、割と早い段階で針金工作に着手したそうです。

 どうにか工作で先生をアッと言わせたかった友人は、針金という素材本来の形状を活かし、3本の針金を「ヘビ」「ミミズ」「サナダムシ」と言い張って提出しようと試みたそうです。しかし、息子の怪しい企みを察知した母親が「頼むからそれだけは勘弁してくれ」と小一時間ほど説得を続けまして、友人は仕方なく方針変更、8本の足をうねらせたタコを作ったそうです。ちょうど人の頭の上に乗せると、不気味な軟体動物が頭を握り潰そうとしているように見える攻めたデザインだったそうです。

 友人の場合はその程度の悶着で済みましたけれども、普通の子はもっと違った騒ぎを起こすものです。夏休みに入るや否やとにかく遊びまくり、8月も終盤に差し掛かってから慌てるという例のやつです。散々遊びまくった数週間前の自分を呪いながら、半泣きで母親に助けを求める。母親は「あんたが悪いんでしょ」なんて叱りながら、渋々宿題を手伝う。これが夏の終わりの風物詩です。サナダムシなんて出る幕じゃないんです。

 そして、子供たちは9月1日を迎えます。先生の号令で次々に宿題を提出する子供たち。そのうち、針金工作を提出する番になりました。攻めた形の針金タコを提出する友人の背後で、なぜか生徒たちがざわついています。何だろうと思って友人が振り向きますと、大半の生徒の針金細工がみんな同じ形だったんです。

 先生は作品を提出する生徒に「これは何ですか」と尋ねました。生徒はバツが悪そうに「泡立て器です」と答えました。次の生徒も、また次の生徒も同じです。先生も何だか戸惑っていたそうです。

 一体どういうことなのか。友人はクラスの泡立て器クリエイター数名からヒアリングをおこないました。そこで原因が分かりました。

 泡立て器クリエイターたちは、みんな工作の宿題をやらずに放置し、8月末日になって母親に泣きついたそうです。母親は仕方なく手伝うも、遊び惚けた子供の尻拭いをじっくりするほど暇ではありません。アイデアをひねり出すのも面倒になった母親はこう提案したそうです。「泡立て器にしたら?」。

 泡立て器なら針金で簡単にできるし、何だったら料理をする時に多少は役立つかもしれない。多くの母親がそう思い至り、子供たちが無批判に従った結果が、泡立て器クリエイターの大量発生だったんです。

 針金工作の宿題を夏休みの終わりまで放置した子供が母親に助けを求める。そんな特殊な条件下での「ベタ」や「あるある」が「泡立て器の制作」だったんです。確かに「ベタ」だからこそ、9月1日、特定の教室に泡立て器が集まったんです。しかし、子供が先生へ次々と泡立て器を提出する場面は「あるある」と言うにはあまりにも異様でした。

 今でも友人はたまに当時を思い出しては「あんなに泡立て器がかぶった光景は二度と見ないだろうな」と感慨深げに語ります。平凡な発想もたくさん揃えば特殊な状況になりうるんです。平凡な発想とは何なのか。泡立て器は我々を無駄に発想の樹海へ迷い込ませます。

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