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あるあるネタは日本にしかないのか?

 いろいろ調べてみると、お笑いの用語は意外と定義が曖昧なものが多いと気づきます。どうしてなのか。あれこれ推測して、理由をふたつ思いついてみました。

 まず、お笑いの中心にいる芸人の方々は定義をカッチリ決める必要がありません。彼らの目的はいかに観客を笑わせ、楽しませるかにあり、使ってる用語の意味が決まっているかどうかは関係がない。芸人それぞれの感覚で使い、何となくでも意味が通じれば問題ないわけです。

 定義を決める必要が出てくるのは、例えばお笑いを研究対象として学術的な論文を書く時です。試しに検索するとお笑いに関する論文はいろいろ出てきますが、どうやら個々の研究に留まり、学会で議論して用語を定義するなどといった体系的な研究がまだ発達していない印象です。その結果として、定義がカッチリしてない単語がまだまだあふれているのだと考えられます。

 それから、お笑いが日々変化している点も無視できないでしょう。お笑いは、場合によっては、これまで当然とされてきたものを否定するようなお笑いをしたり、今までにない全く新しい笑いが生まれることだってある。つまり、お笑い用語の定義を決めたところで、時間が経つに従ってその定義自体がずれてしまう可能性があるわけです。だったら、ぼんやり抽象的なままにしておいたほうが、多少の定義ずれならばカバーできる。定義を明確にしないほうが使い勝手がよくなるということです。

 とまあ、わちゃわちゃ書いてきましたが、無理やりまとめると、お笑い用語の定義が曖昧なのは「お笑い」の歴史がまだ浅いからなのだと思います。

 もちろん、笑い自体の歴史は長く、落語は当然として、神話にも笑い話は存在します。ただ、現在のお笑い芸人が活躍しているような、舞台に立ってネタを披露したり、テレビに出てトークしたりするような「お笑い」は、比較的最近の話です。現在のバラエティ番組の基礎を作ったのは萩本欽一さんですし、ピン芸人がよく使うフリップ芸を最初にやったのはビートたけしさんともとんねるずとも言われているように、現在の「お笑い」の土台を作った方々の中にはまだご存命の方がいらっしゃることからも、「お笑い」は笑いの歴史の中では新参者と言えるでしょう。

 お笑いが日々変化を続けているのは、言い換えればまだベストな形式が定まっていないと言えるかもしれない。研究が進んでないのだって、お笑いの歴史が比較的浅いため、伝統的なお笑いよりデータが少ないからかもしれない。とにかく、何らかの理由でお笑いの用語は定義が曖昧なものが多いんです。

 さて、話は急に変わりますが、その「お笑い」の中に「あるあるネタ」というものがありますね。日常的によくある物事、もしくはありそうな物事を取り上げて、観客の笑いを誘うものです。

 その「あるあるネタ」が日本独自のものだと主張している方がいらっしゃると聞きました。チャド・マレーンさんという、オーストラリア出身の吉本芸人です。

 しかし、日常的にあることと申しますか、ステレオタイプを笑うジョークは海外にもあったと思うんです。例えば、電球ジョークと呼ばれる、「1個の電球を取り換えるのに、〇〇な人が何人いるか」というものです。その「〇〇」の部分にポーランド人とか弁護士とかロカビリーとか、いろんな集団を入れて、あとはその集団にちなんだステレオタイプな部分をオチに使う。弁護士だったらひとりが電球を変えてる間にもうひとりが「意義あり」と言って邪魔をする、みたいな感じですね。

 だから、チャド・マレーンさんがどういう感じの主張をしているのか、詳しく知りたくなりました。一言で「あるあるネタは日本にしかない」と言っても、それは海外に「あるあるネタ」みたいなものが全然存在しないことを意味するのか、それとも、「あるあるネタ」にあたるようなものはあるけど「あるあるネタ」と認識されていないという意味なのか、では大きな差があります。

 というわけで、早速、チャド・マレーンさんの本を入手しました。「世にも奇妙なニッポンのお笑い」、NHK出版から2017年に刊行されています。読みやすい文章ですし、ページ数もそこそこで、気軽な読書にはもってこいの本でした。そして、該当の個所は、恐らく次の部分だと思われます。

 なぜ、あるあるネタが日本的なのか。それは、海外の人にあるあるネタを説明しようとしたら、まずはその概念から説明しないといけないほど、通じないものだからです。
 あるあるネタは、見ている人の間にある程度共通した意識があってこそ成り立つもの。でも欧米の国々では人種や階層が多様で、共通意識を持つということ自体がそもそも難しい。だから、海外であるあるネタをやったとしても「いやこういうのもあるんじゃないか」「こういうのもあるだろう」となってしまって、「あるある」とはならないのです。
 海外の人だって、自分がよく知るタイプの人やシチュエーション、その昔に経験したことをネタにされたら笑いますし、実際、特定の人たちに向けたコメディにはそういう「あるある」ネタも盛り込まれますが、結局みんなの「あるある」がバラバラなため、ほかへ行っても通じず、ジャンルとして確立しないわけです。
(「世にも奇妙なニッポンのお笑い」チャド・マレーン、NHK出版、2017)

 重要な点としては「海外」と言いつつも「欧米」の事情を述べているところと、あとは「あるあるネタのようなものは存在している」というところです。

 チャド・マレーンさんがおっしゃっているのは欧米との比較であり、それ以外の国には触れていません。ですので、欧米以外の国では「あるあるネタ」があるともないとも言えない状況です。本当に日本的かどうかは判断を一旦保留してもよさそうです。

 また、あるあるネタに該当するようなものがあるとは書かれています。ただ、「欧米の国々では人種や階層が多様で、共通意識を持つということ自体がそもそも難しい」ため、「特定の人たちに向けたコメディにはそういう『あるある』ネタも盛り込まれ」る場合があるくらいだとの認識のようです。

 推測ではありますが、チャド・マレーンさんのおっしゃる「あるあるネタ」とは、特に何の説明をしなくてもみんなに通じるようなものを想定しているかのようです。つまり、とある国の国民みんながパッと分かるようなあるあるを敢えて「あるあるネタ」と定義しているのではないか。

 しかし、日本でも特定の人たちの向けたあるあるネタは普通にあります。それこそ弁護士あるあるとか、数学者あるあるとか、ボディビルダーあるあるとか、何でもいいですけど、特定の人にだけ共感を求めるかのような限定あるあるネタは珍しくありません。

 それに、あるあるネタもそこそこやりつくされたせいか、本来のあるあるネタをフリにして、むしろ「ねえよ」とツッコまれること前提のあるあるネタすら出てきています。「ポーランド人は毎日、地球を真っ二つにしている」とか、何でもいいですけど、そういう感じですね。無茶苦茶な偏見を言って「そんなわけねえじゃん」って笑いは海外でもありそうです。

 それから、いくら人種や階層がいろいろあるからって、みんな人間であるわけです。石につまづけば転ぶし、膝をすりむいたら痛い。変なものを拾い食いしたら腹を壊すでしょうし、好きな子に振られたらつらいです。いわゆる生理的な部分とか、そういう人ならではのところからアプローチしたあるあるネタならば、欧米でも幅広い人にウケる可能性が充分にあるでしょう。

 そう言えば、以前に有吉弘行さんがラジオでオーストラリア版ドキュメンタルについて言及していました。「ドキュメンタル」は参加費100万円を持参した10人の芸人が互いを笑わし合い、最後まで笑わなかった人がお金を総取りできるという番組です。制限時間は6時間とかなりの長期戦であり、必然的に各芸人は総力戦と消耗戦を強いられてゆきます。後半になるともう手持ちのネタがなくなり、でもライバルは残ってる。そんな時、往々にして皆さん、下ネタに手を出し始めるわけですが、オーストラリアでもそれは同じだと有吉さんはおっしゃっていました。

 下ネタは言い換えれば人の生理的な部分であり、事実として人類に広く通じるものではあります。内容が内容だから笑う人もいれば怒る人もいるわけですが、人類ならば誰もが分かる話なのは間違いないでしょう。つまり、欧米でもあるあるネタが通じる可能性はある。

 なんだかチャド・マレーンさんの主張に反論しまくってる感じに思われるかもしれませんが、そんなつもりはないんです。ただ、「あるあるネタ」もまた細かく見ていくと定義が意外と曖昧で、正確性を高めようとすればするほど、うまく説明するのが難しい。だから、こういう考え方もありますよと書いてみた次第です。

 海外の方が日本の笑いに言及するところを見聞きする機会は、個人的にはあまりございません。海外のお笑いについて知る機会も同様です。そんな状態ですので、チャド・マレーンさんの主張は大変興味深かったですし、彼の考えに刺激されていろいろ書いてしまいました。

 今回は以上になります。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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