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席を譲られる予行演習

 人は未来の予測がなかなかできませんけれども、そのうち老いていくんだといくザックリとした将来は、人生の諸先輩方のお陰で子供でも簡単に予測できます。場合によっては杖を使うことになるかもな、とか、さっき食べた昼ご飯をもう5回は食べようとするようになるかもな、とか、人は来るはずの未来についていろいろ考えるわけです。

 電車に乗っていたら席を譲られる。これも、ひょっとしたら体験するかもしれない未来でしょう。年を重ねればどうしても足腰は以前に比べて弱ってくるでしょうし、実際に行動するかどうかは別として、「お年寄りに席を譲ったほうがいい」という考えは、何だかんだ世間に広まっています。年齢を重ねれば、それに従って席を譲られる可能性が高まってくるに違いない。

 ただ、いざその時が来た際、スムーズに席を譲られることができるのか。私としてはそこが若干の不安です。思わぬ申し出に慌ててしまい、お礼を言うべきところでどこにも存在しない言葉を発してしまうかもしれない。何の事故もなく座れたところで、「いよいよ俺にもこの時が来たか」とショックを受けてしまうかもしれない。できれば予行演習をしておきたいところですが、電車内で知らない人に「将来に向けて練習したいんで席を譲ってくれませんか」と頼む勇気なんてとてもありませんし、家でそんなことしていたらいよいよ奇行です。練習なしの本番で何とかするしかないのか。不安ばかりの未来にまたひとつ不安を上乗せしてしまいました。

 そんなある日のこと、私は友人と電車に乗っていました。吊革につかまる私はたまたま結構な荷物を持っていました。両脇に中身の詰まったトートバッグを抱え、更にパンパンのリュックサックを背負っている。とは言え、やってられない重さではなく、このまま何の問題もなく家まで帰れそうなレベルでございました。だから私はいつものように隣の友人と頭の悪い会話に勤しんでいたわけなのですが、前に座っている女性がいきなり立ち上がると、「どうぞ」と私に席を譲ったんです。

 予想外の出来事に、私はポカンとしながらも「ありがとうございます」と礼を言って大人しく座りました。女性はそのまま次の駅で降りてゆきました。

 確かに私はパッと見、大荷物を抱えているかのようだったかもしれません。女性はもう見るからに真面目そうで、大人しそうな方でした。荷物を抱えた私が前に立った時から、彼女は「どうしよう、席を譲ったほうがいいんだろうか」と、あれこれ考えたに違いありません。

 でも、私に席を譲ってくださった女性は、こんなことを申し上げるのも何なのですが、明らかに年上の方だったんです。しかも私は席を譲られる直前まで隣の友人と頭に悪い話ばかりしていたわけで、席なんか譲らなくても大丈夫な感じに見ることもできたはずなんです。なのに、なぜか知りませんが女性は私に席を譲ってくださった。

 よく分かりませんが、意図せずして私は席を譲られる予行演習を完了いたしました。というわけで今後、私を見かけた際には席を存分に譲ってくださって全く問題ございません。何卒、宜しくお願い申し上げます。

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