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芸人はなぜ「芸人さん」と呼ぶか

 言うようになったのは、ここ10年くらいでしょうか。少なくとも誰も昔は「芸人さん」と呼んでいなかったと思うんです。それが今では当たり前のように呼ぶ姿をテレビなどで目撃します。誰が呼び始めたのかは分かりませんが、最近になってお笑い芸人やその周辺で定着したのは確かです。

 この「芸人さん」という呼び方が気になっていました。芸人以外の人が芸人に向かって「芸人さん」と呼ぶのはともかく、芸人が芸人に「芸人さん」と呼ぶのは自分の会社を「御社」と呼ぶ感じにならないのか、と思ったからです。自分に敬称をつけちゃうのは、致命的なミスとは言わないまでも、推奨される行為ではありません。芸人が芸人を「芸人さん」と呼ぶと、そんな感じで誰かに指摘されるんじゃないかと心配になったわけです。

 でも、別に誰の指摘を受けるわけでもなく、普通に「芸人さん」という呼び名が定着していきました。私がひとりで勝手に心配していただけのようです。ただし、まだ気にはなりました。どうして、自分を敬称で呼んでいるかのような言葉が何事もなく定着したのだろうかと。

 もちろん、職業や肩書にさん付けする呼び名は前々からございました。お巡りさんとかお医者さんと業者さんとか、そんな感じですね。会社名にさん付けする場合もございます。でも、そういう呼び方は、同業者にはあまり使ってこなかったと思うんです。例えば、医師が別の医師を「お医者さん」と呼ぶことはほとんどない。では、なぜ芸人は他の芸人を「芸人さん」と呼ぶようになったのか。

 どうやら自分しか抱いていない疑問のようでしたので、自分で自分を納得させるしかありません。そこであれこれ考えました。

 気づいたのは、芸人が自分以外の芸人を呼ぶ場合に「芸人さん」が使われている点です。例外として、「自分たち芸人さんが」と言っている方もいらっしゃいましたけれども、それもまた自分以外の芸人も対象になっている点は同じです。つまり、例外はあれど、「芸人さん」は同業者に対する敬称として使われているようです。それなら自分の会社を「御社」と呼ぶような間違いは犯してはいません。

 しかし、先ほども書きました通り、医師は別の医師を「お医者さん」とはまず呼びません。「芸人さん」が定着したお笑い業界とは何が違うのでしょうか。

 そもそもこの疑問を追求する目的が「自分を納得させるため」ですので、きっと穴だらけの理屈でしょうけれども、思いましたのがお笑い芸人は比較的最近になって世に広まった職業だという点です。お笑い芸人のようなことをする仕事は昔から存在はしていたでしょうが、「(お笑い)芸人」と呼ばれる方々が広く活躍するようになったのはここ数十年の話ではないかと思われます。つまり、メジャーな職業になって日が浅い。少なくとも医者や警察などと比べると、芸人が職業として人々に広く知られるようになったのは最近です。

 最近になってメジャーな職業になったわけですから、同業者がグッと増えたのも最近の話だと思います。そうなると、仕事の関係上、「同業者の敬称」を使う必要性が出てくる。その「同業者の敬称」が存在していなかったのではないか。個人的にはこの説がしっくりきました。

 医者ならば「医師」とか「先生」とかが「同業者の敬称」でしょうし、警察なら「警部」などがそれにあたるでしょう。それ以外の職業でも、企業名にさん付けとか、名前に肩書をつけるとか、場合によって敬称を使い分けてきました。でも、芸人の「同業者の敬称」ってあまりなかったように思うんです。名前にさん付けのような、職業を問わない一般的な敬称は使われていたでしょうけれども、不特定多数の同業者を指す敬称が芸人にはない。そして、その役割を「芸人」という言葉は果たしていないと思われていたんだと思います。

 じゃあ、どうして「芸人」ではダメだったのか。「医師」は「医師」で敬称の役割を果すというのに。これは、芸人という職業の地位向上が比較的最近だとの事実が関係している可能性が考えられます。今では信じられませんが、数十年前の芸人はテレビなどで存在を軽んじられていたと聞きます。そこを、今では師匠とか大ベテランとか呼ばれているような方々が頑張って、芸人の地位向上を成してきた。その結果、今では芸人が憧れられる職業となってきています。

 ですが、芸人は例えば「医師」のような立派なイメージがあるかというと、まだそこまでではないでしょうし、芸人自体がそこを目指している感じにも見られません。理由はともかく、事実として芸人はそこまで地位が上がりきっていないため、「医師」のように「芸人」という言葉だけでは敬称として不十分だとみんなが無意識のうちに思ったのでしょう。その結果として生まれた言葉が「芸人さん」だったのではないか。ここまで考えて、かなり腑に落ちました。

 「芸人さん」は敬称にしてはフランクで、用法としては「業者さん」に近いものがあります。口語で用いられ、あまりオフィシャルな場面では使われない。文書となりますと更に使われにくい。現在はそれでも不具合がないため、業界で広く使われているのだと考えられます。また状況が変われば、新たな敬称が自然と出てくるのかもしれません。

 ちなみに、他の業界でも「芸人さん」に近い敬称を目撃しました。「声優さん」です。私はそちらの業界に詳しくないのですが、声優もまた今でこそ人気の職業ですけれども数十年前はそこまで地位が高くなかったようです。こちらもまた、近年になって地位向上を果してきた職業ということでしょう。他にも何らかの共通点があったため、芸人と同じような形の「同業者の敬称」が生まれたのかもしれません。

 自分で自分を納得させるためにダラダラ書いて参りましたが、せっかくなので考え方のひとつとして書いてみました。そんな文章をここまで読んでくださり、ありがとうございました。

追記
 役者の方が「役者さん」と言っているところも目撃しました。同業他社を職業名で「〇〇さん」と呼ぶのは、いわゆる業界用語なのかもしれないなと思えてきました。

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