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悪い見本が良い見本なのは悪い

 「悪い見本」という表現がございますが、良すぎてもダメな場合があるのは見本の難しいところです。

 大学生になったばかりの新入生は、そのガラッと変わる環境に多かれ少なかれ戸惑うものです。初めてひとり暮らしをする人ともなれば日常生活から不安だらけでしょう。私もそうでした。

 私が新入生だった頃、そんな不安を抱える1年生たちのために、大学や学生有志などが日常生活から大学での過ごし方まで説明するイベントをいくつも開いていました。どうやって講義を受ければいいかとか、日常生活でどんなトラブルが起きやすいかとか、そんなことを資料配布や口答説明などでいろんな人が事細かに伝えてくれます。

 学生有志が開催するイベントですと、在校生が寸劇を用いて日常生活でありがちなトラブルとその防止方法を説明してくれていました。自宅に変なものを売りつけてくる人が普通に来るから気をつけましょうとか、構内でもナチュラルに怪しい宗教なんかの勧誘があるから注意しましょうとか、チキンの私の不安をあおるようなことばかり言ってきます。しかし、こういうものを事前に知っておくだけでもトラブルを回避できるかもしれないわけですから、私は素直に先輩方の寸劇を眺めていました。

 当時、大学生の間で既に問題となっていたものとして、お酒の一気飲みがございました。酔った勢いに任せて先輩が未成年に酒を飲ませたり、バンバン飲みまくって急性アルコール中毒になったりと、お酒のトラブルは全国の大学で起きていました、たまに深刻な事態も起きているため、大学側は強い表現で一気飲みを禁止していました。もちろん、学生有志のイベントでも一気飲みをしないよう注意する寸劇が用意されていたのですが。

 寸劇で現れたのはふたりの男子学生でした。ひとりは長身で、ちゃんと剃っているのに髭の濃さがうかがえるような顎をした人でした。髪は茶色で、だいぶチャラい感じでございました。もうひとりはどちらかというと背が低くてぽっちゃりとしており、人のよさそうな顔をしていました。彼は1.5リットルのペットボトルを持っています。中の液体は明らかにお茶でしたが、それをお酒に見立てて飲み会の寸劇が始まります。

 茶髪君に飲むよう勧められたぽっちゃり君は、困惑した演技を見せながらお茶を飲み始めます。デカいペットボトルをラッパ飲みです。そうすると、茶髪君がこう言い出しました。「スーパーマリオ一気!」。

 戸惑う新入生をよそに、茶髪君は例の任天堂マリオの曲に合わせて一気のコールを始めます。これがまた、「そういうバイトでもしてんのか」と言いたくなるくらい慣れているんです。みんなが酔ってる時にこれをやられたら絶対に盛り上がるだろうな、というのが、お酒を飲んだことのない私でも分かるくらいでした。

 あまりに続く一気コールに思わずお茶を飲むのをストップし、ゼエゼエ肩で息をするぽっちゃり君でしたが、茶髪君は、一拍置くと全く別の一気コールを始めました。これもまた非常にリズミカルなノリが明らかに飲酒を進めそうな感じなんです。一方のぽっちゃり君は台本にない流れだったのか、マジで困った様子で茶髪君を見たんですが、すぐに諦めてお茶を飲み始めました。そして、飲むのを中断すると、茶髪君が更に別の一気コールを展開する。結局、ぽっちゃり君は舞台上でお茶を1リットル以上飲む羽目になったと思います。

 寸劇の終わりにふたりは「一気飲みはやめようね」と言って舞台から去るわけですが、まさに「誰が言ってんだ」という印象を新入生の大半が抱いたと思います。どう考えてもあの寸劇は「一気飲みって楽しいですよ」と勧めているようにしか思えない。それくらい、茶髪君の一気コールは完成されていました。

 こりゃあマネするやつが出てくるな、と思いました。実際にそういうお調子者を数名目撃しましたけれども、それ以上にそのお調子者を止める人たちがいたので、一応は学生有志の啓蒙がうまくいったんだと思います。

 悪い見本が完璧すぎるのも考え物だと思った次第です。

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