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受け継がれるのは遺伝子だけでなく

 お笑い芸人はコンビやトリオなど、グループを組んでいる方々がかなりいます。主流のひとつと言っていい。そして、どのグループにも解散の可能性が常にございます。

 私がお笑い芸人を見始めてから結構な年月が経ってしまいましたけれども、私が知るだけでも膨大な組が解散していきました。好きなコンビが解散したことも結構あった。最初はそれなりにショックを受けておりましたが、毎月のように解散のニュースが飛び込んでくるようになると慣れてくるものです。解散を機に芸人を引退するニュースを見ても「まあ、おつかれ」と思うくらいの余裕はできるまでになった。

 ただ、死別となるとそうはいきません。解散なら再結成の可能性がありますし、引退も復帰の可能性がある。実際にそうなった例も、少ないながらございます。でも、死は不可逆です。「没後10年記念でこの世に復帰しました」なんて話はない。旅立った芸人は二度と戻ってこないんです。

 芸人の死で最も印象的だったのは、お笑い芸人を熱心に見るようになって、最初に若くして亡くなった方でした。お名前を村田渚さんと言います。同期にはナインティナインやよゐこがいまして、今もご存命ならばベテランの域に入っているでしょう。

 私が村田さんを初めてテレビで見た時、彼は「フォークダンスDE成子坂なるこざか」という、初見ではまず正確に読めないコンビ名で活動していました。子供の頃、「タモリのボキャブラ天国」という番組に出演していた当時の若手芸人が次々にブレイクしておりまして、村田さんのその中のひとりでした。他の芸人をあげますと、爆笑問題、くりぃむしちゅー、ネプチューンが代表格です。

 「ボキャブラ天国」でブレイクした若手の大半は番組が終わると不遇の時代に戻ってしまったようです。くりぃむしちゅーでさえ苦労したとの話を聞きます。

 村田さんもまた、番組終了後は大変だったようです。フォークダンスDE成子坂を解散し、所属していたホリプロを離れ、フリーのピン芸人として活動していた。もがいていたと言えるのかもしれません。「爆笑オンエアバトル」という、観客に評価されなければネタがオンエアされない番組にも少し下の世代に混じって参加し、オンエアを勝ち取ってホッとしている姿を私はよく覚えています。

 そんなもがいた日々が、やがて結果となって出てきました。少なくとも、私にはそう見えました。後輩芸人と新たにコンビ「鼻エンジン」を組み、お笑い部門を設立して間もないSMAに所属します。そして、その年のM-1グランプリでは、結成数ヶ月にも関わらずいきなり準決勝まで勝ち抜いたんです。

 亡くなったのはその翌年でした。その年のM-1も順調に3回戦まで勝ち抜いた頃です。享年35歳。死因はクモ膜下出血だったそうです。芸能人の死で血の気が引くことはあまりないのですが、これはスッと引きました。「まだこれからなのに」と思った。せっかくここから再ブレイクできるはずが、こんなところで終わりなのかと。

 「ボキャブラ天国」終了後に解散を経験しながらも、再ブレイクを果たして現在に至る方は何名かいらっしゃいます。例えば、土田晃之さんです。「ボキャブラ天国」時代は「U-turn」というコンビでしたが、後に解散し、ピン芸人として現在も活動しています。当時「底ぬけAIR-LINE」というトリオだった古坂大魔王さんも解散後にブレイクしました。しかも、古坂さんは土田さんよりも長いこと苦労し、「ボキャブラ」放送当時は影も形もなかったYouTubeがきっかけでのブレイクです。古坂さんが売れた時、私はもちろん思いました。村田さんが生きていたらどうなっていただろうかと。

 村田さんは再ブレイクの前に亡くなってしまいました。今となっては名前を知っている方のほうが少ないのかもしれません。ただ、村田さんが何も残せなかったかと言うと当然ながらそんなことはない。何なら、その辺の芸人よりはちゃんと残したものがございます。

 最も分かりやすいものはSMAが運営するお笑い専門の劇場「Beach V」です。名前の由来は完全に村田さんでございまして、「Beach」は下の名前の「渚」から、「V」は「村田」の「村」、すなわちVILLAGEから来ています。

 それから、村田さんは鼻エンジン時代に、ちょっと新しいことをやっていたと私は勝手に思っています。それは、漫才のネタ中、敢えて分かりづらいボケをしばらく放置し、後から伏線を回収するようにツッコむシステムです。例えば、ボケがネタ中に来てる服のジッパーを開けたり閉めたりする。ツッコミの村田さんはそれを指摘せず、観客も「なんかジッパーいじってるな」くらいの印象しか抱かない。それがネタの後半で村田さんがいきなり「ジッパーの位置、ちゃんと決めとけよ」とツッコむ。

 このシステム、今でも達者な漫才コンビがちょこちょこやっているのを見るんですけれども、私がそれを初めて見たのは鼻エンジンでございました。もちろん、彼らが最初にやったコンビなのか、私は知りません。ただ、この手のシステムを使った最初期の芸人が鼻エンジンだったでしょうし、村田さんがそのネタを書いていた可能性が高い。少なくとも、鼻エンジンがそのシステムを披露したからこそ、今でも受け継がれているかもしれないと思っています。

 そう考えると、です。私たちは生きていると様々な考え方に影響を受けるものです。そのいろんな考えは、現在の人が作ったものもあるでしょうけれども、今はもうこの世に存在しないような、そんな昔の方々が作り、受け継いできたものもあるはずです。実際、我々が日常的に使っている言葉の中には、江戸時代から使われているものも当たり前のようにある。そんな感じで、我々の考え方や言動、それこそ一挙手一投足に至るまで、遠い遠い先祖の皆さんが作り、受け継いできたものが集まって出来上がってきたのかもしれない。

 村田さんは独身で亡くなりましたから、お子さんはいらっしゃらないでしょう。つまり、彼の遺伝子は残らなかった。でも、彼が考え、実践したお笑いは、何らかの形で今のお笑い芸人の、一挙手一投足のどこかには受け継がれているのかもしれない。村田渚というお笑い芸人から、私はそう考えるようになりました。


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