【哲学】ハゲ頭のパラドックスとは?髪が○○本になるとハゲ?
男性にとって大問題の「ハゲ」。
毎朝鏡を眺めながら「大丈夫かな、オレ」とドキドキしている人も多いのではないだろうか。
無論、おっさんど真ん中である私にとっても大問題。正直なところ、こんなところで呑気にnote記事などを書いている場合ではない。
とは言え、ここに実は哲学的に重要な問題がある。哲学が絡むと聞けば、避けて通るわけにはいかない。また、後で述べるが、「ハゲ」について考えることで、現実の社会について考える際の貴重なヒントも得られると思う。私自身の問題はさておき、今回はこの「ハゲ」の問題を、哲学してみたい。
今回のテーマである「ハゲ頭のパラドックス」とは、実は古代ギリシャ時代に考えられた、正真正銘の哲学的難題である。
※学術的には、「砂山のパラドックス」や「ソライティーズパラドックス」など表記されることが多い。論文検索などされる場合は、こちらであたってください。
さて、人間の髪の毛は10万本と言われている。髪の毛が3本(異論あり)である波平さんはハゲと言って差し支えなさそうだ。
しかし、髪の毛が5万本になった人は、確かにさみしいとは言えそうだが、果たして「ハゲ」と言えるのか。
その答えは、きっと人によって変わるだろう。
7万本では?3万本では?
また、仮に10万本の髪の毛を誇っていたあの人から、
1本1本髪の毛をむしり取っていったとき、果たしてどの時点で、
「あ、今ハゲたね!」と言えるのか。
非常に悩ましい問題である。
お察しのとおり、このパラドックスのポイントは、
「ハゲとフサフサは明らかに違うのに、1本ずつ抜いていったらどこで区別したらいいのかわからないじゃん!」
ということに尽きる。
もちろん、「9000本になると少しさびしい」とか、「7000本だとかなりやばい」とか、「5000本になるなら死んだ方がいいよネ!」とか、人によって目安や基準、感じ方はそれぞれあるだろうが、「フサフサ」と「ハゲ」の明確な区別はできないのである。
実は、このパラドックスは、少し広くとらえると、ボクらの身近な至るところに転がっている。
例えば、
・「何才から大人になるのか」
・「どれだけ勉強すれば頭が良いと言えるのか」
・「収入が何円あると○○手当がもらえなくなるのか」
といったように、普通に生活をしている日常においてヒョコヒョコと顔を出し、ときにはボクらを悩ましたり、「明確な区別」を求めてきたりする。
さらに、忘れてはならないことがある。
この「明確な区別」は不条理な形になって現れることが本当に多い、ということだ。
世の中、白黒ではっきり割り切れるものは、実はそれほど多くはないのかもしれない。実際に存在するのは「ちょっと黒いグレー」や「ほとんど真っ白なグレー」といった、言わば、豊かなグラデーションだろう。
空にかかる虹は7つの色からできていると言われる。
「セキトウオウリョクセイランシ」と言えばゴロも良く覚えやすい。
だが、虹だって正確に七色なわけではない。ジワーっと境目もなく変わっていくグラデーションに過ぎない。
7色というのはそれを見る人間が便宜上分けたに過ぎない。
現にアメリカは6色で中国は5色と数えるそうだ。アフリカには日本より多く数える国や民族もある。
人間と社会が「区別」というものを必要としている
ここまで読んでくれた方は、この社会に現に存在する「明確な区別」についてどんな感想を持たれただろうか。
「なんかウサンクサイな」なんて感想を持った人もいるかも知れない。
社会運営上の必要から、無理矢理に現実にメスを入れ、(実際にはありもしない架空の)白とか黒に分けてしまう。その結果、グレーの豊かなグラデーションは見失われ、多くの不条理を生み出してしまう。
上で例示した、東大の入試に1点たらずで落ちた人は、合格者の能力や努力とそれほど変わらないだろう。
こうした不条理は、発展した社会では避けることのできない必要悪とも言える。だが、不条理に隠れた豊かなグラデーションを時々思い起こすことで、モノゴトの本当の姿が見えてくることもあるのではないだろうか。
ハゲ頭のおっさんに思いをめぐらすことで、真実の姿が見えてくるのだ。
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