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まさに今すれ違って行くいま

なんでなんでって、本当になんでも理由を知りたがる子供だった。周りの大人たちに用意できるこたえのものならよかった。親戚に教師や博士がいるわけでもない。特別な回答がある訳じゃないけれど、親しい人から聞いた言葉は私にとっての答えにもなった。分からないことはなんでも分かりたいし、分かることが出来るようになる、そう思えた。簡単に答えをくれる大人たちが側にいたから、簡単に賢くなれた気がした。

なんでも不思議に思うわたしの質問に、
お母さんはある日「なんでだろうね」と、わたしに"なんで"を返した。
お母さんも4-5歳の幼子に、難解なことを噛み砕いて説明するのは難しかったみたいだ。私は身の回りの出来事の答えは、周りの大人たちが当然知っているものだと思っていた。そこではじめて「なんでだろうね」に自分の頭を悩ませる日がやってきた。
ちなみにその時の疑問というと本当にありふれたもので「空が青いのはなんで?」だったらしい。

その性質が変わらず続いて、疑問を放置できない、納得出来るものなら納得したい、そうして小さな調べものを疑問が浮かぶ度にした。読んでいる本に分からない単語があれば辞書を引き、気になることがあれば本を借りたり、ネットで調べるなどした。
現実の大抵のことには、偉大な先人たちが出した答えがある。それも正しくは答えとされているものであって、答えでなくなる日が来るのかもしれないけれど。私の知能が及ぶわけもないので、とりあえずは現在における解を得られた。

そして気持ちだとか人間だとか、思想だとか時間だとか、そういう想像するしかないもの、答えのない議題に突入する。私の通っていた学校は少し特殊なところがあったので、考えよう、想像しよう、否定なしの議論をしよう、という趣旨の授業が重要視されていた。それは私の性質をより濃いものにしたと思う。答えのないものに対するわたしの答えをそれからずっとずっと探すことになる。

愛だとか恋だとかそういうことはよく友人と話をした。その友人も、定義のないものが分からないから好きが何たるか分からない、とよく言っていた。本当にその通りで、正直なひとだな、と惹かれていた。私と違って賢かった。でも哲学の前では平らな立場でいて語り合ってくれた。そんな時間が尊かった。

そんな私も人から気持ちをもらうこともあった。
あなたの、あなたの、あなたの、曖昧な好きには。
なんだか白ける気持ちがした。

今の、もう過去になった、そのわたしに一時的な好感を抱いただけで。既にそれは過去のわたしへの好きだ、そんな好きは好きの定義から外れているんじゃないかって。わたしの定義の好きには到底認められなかった。
そしたら何が好きということになるのか、もう不変性に縋るしかなかった。不変ということが証明になる。不変ということが好きということを安定させる。死んだ先もまた証明できないので。死ぬまでずっと、気持ちが絶えないこと。これがいまの私の好きの定義だ。

そしたらつぎは時間のことを証明しないといけなくなる。まさに今という傍から過ぎ去っていく"いま"はもう少し前の今で、文末を打つ頃には過去の時間に位置している。
常に過ぎていく今はもう過去になった時間で私は透けている。過去と未来の間で透けている。
だから今っていうのは実際には少し先の未来のことを言っているし、過去のことでは決してない。
今は未来の先端のことを指しているような気がする。そうしてからだをすり抜けていく。今はそしたら、あってないものなんじゃないかとおもう。
過去と未来の間には今じゃなくて私が挟まっている。時間のサンドイッチ。

気持ちの不変性といっても、そうして挟まっている私は常に温度からなにから変化している生き物だ。
実際には不変というのには無理があるのも理解しているけれど、これもまた私にとっての不変の場所に位置していたらいい。
今好きなのはもう過去の好きになっているなら、未来の好きを揺らがないものに出来るかどうか、信じられるかどうか、やり通せるかどうか。それしかない。
思い込みの力はすごい。真実だろうが嘘だろうが思い込むと自分のなかの本当になる。
わたしには思い込む力がある。運命しか信じられることがないからだ。死ぬまでずっとの証明をするんだ。

だから信じてほしい。自分のことを大切に思うひとの気持ちを無闇に量らないでほしい、自分のためにだ。わたしは誰のことも完全には信じられないけど。
運命だけ。

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