桜茶
年末に冷凍しておいた小餅をオーブントースターで焼きながら、ぜんざいの横に添える塩気のものを探した。漬物は食べてしまったけれど、確かあるはずと思っていた塩昆布も見当たらない。冷蔵庫の上の段の奥に手を伸ばして、指先に当たった小袋をつまみだす。使いかけの桜茶だった。
塩を落とさないままの桜の花の塩漬けを、煎茶茶碗に入れ熱湯を注ぐ。今日の桜茶には、お茶と塩昆布、両方の役をやってもらうことにしよう。
湯気と共に鼻先に届く甘い香り。この香りに出会った時に頭に浮かんでくる言葉は、ここ何年かで「桜餅」から「クマリン」という芳香物質の名前に変わった。知識を得ることで情緒が失われる一例だ。しかし、よく香る花を咲かせる桜の中には、クマリンを含まない品種もあるらしい。それを知った時、サルベージされた記憶がある。20数年前の大阪造幣局の桜の通り抜け。混雑で牛歩の最中、珍しい黄色だったか薄緑色だったかの八重桜の花に顔を寄せると、蜂蜜と青い柑橘の香りがしたこと。
毎年4月上旬から中旬にかけて行われる桜の通り抜けは、昨年は緊急事態宣言で中止になった。私がこの桜茶を買ったのはちょうどその頃だった。
あれが飲みたい。そうしたら、もしかしたら、落ちつく気がする。クマリンの効能って何だったっけ。そんなことより、あれってどこに売ってるんだろう。もう遠出は難しそうだった。桜湯。桜茶。茶と呼ばれてるなら、近所のショッピングセンターのお茶の店に置いているかもしれない。
研修中の名札をつけた新入社員とおぼしき若い男性と、肩までの黒髪で私と同じ年代であろう女性が、小さなカウンターの向こうに立っていた。ふたりとも、そして私も、当時は闇市ならぬ転売サイトでしか手にはいらなくなっていた白い不織布のマスクをしていた。私のマスクは、こんな事態になる前、実家の母が間違えて小さいサイズを買ってしまったのを1箱もらったものだ。
「桜茶はありますか?」と尋ねると、女性の店員さんが「はい、ございます」と案内してくれた。私達はまだ、マスクをして接客をすることや、そのお客になることに慣れていなかった。少しぎこちない雰囲気で会計のやりとりが終わろうとした時だった。
「何かおめでたいことがございましたか?」
おめでたいこと。世の今の雰囲気に不似合いな言葉に戸惑う。でも、こちらでは祝いの席で桜茶を出すことがあると聞いたことがある。彼女の細められた目には接客業らしい気遣いと、かすかな期待が浮かんでいるように見えた。私は「いいえ」とだけ答え、目元を微笑ませようとマスクの裏側で口角を上げた。「はい」と答えたかった。帰り道、頭の中では「おめでたいこと」という言葉が、金の粉を纏っていた。
その次の週、ショッピングセンターは食料品売り場を除いて休業となり、日本のあちこちで開花直前のチューリップ、バラ、鉄砲百合などの花々が、咲くと人が集まってしまうからという理由で刈られた。
FMラジオがニュースに変わった。「新型コ□ナウイルス対策で、政府は、首都圏の1都3県を対象に7日、緊急事態宣言を出すことを決める方針です」
数年に一度レベルの強さという寒波の予報も出ている。
また、波を潜り抜けないといけないのか。あといくつの。
餡子色の汁を飲み干す。
あぁ、久しぶりにケンタッキーフライドチキンが食べたい。
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