ぺこぱという怪物

ぺこぱの漫才には度肝を抜かれた。

ぺこぱの漫才は漫才の多様性に含まれるとのたまう輩は、ぺこぱの漫才がその多様性の拡張に成功したことを本当に意識的であるのだろうか。

私は感服した。新しい漫才など存在しない、全ての漫才は漫才の多様性の枠組みに含まれているという観点のその枠組みの外にぺこぱの漫才が突如として現れた。

片方がボケて片方が訂正する、そのルールをフリにする。文字にすれば真新しい感じがしないが、漫才の全歴史においてそんなことに成功した事例はない。

なぜ、それがいま成功したのかと言えば、社会との親和性の高さに他ならないが、それに合わせられる平衡感覚たるや自分の生きてきた歴史で彼らの右に出る人物を知らない。

人が常識から外れた(ボケ)ときにその人を訂正する(ツッコミ)という形を漫才師が覆す際、常識という観点に着目する、私の知る限りだとおぎやはぎに起因するがそのような形は決して珍しくはない。たぶんおぎやはぎ以前にもいただろう。

おぎやはぎは小木の発言に対し、矢作はそれが常識に外れていても仲が良いから常識として容認する立場をとる。別におぎやはぎを否定しているわけではもちろん無い。

しかしぺこぱには主張がある。シュウペイの発言を松蔭寺は肯定するが、そこには現代の常識の不透明化を客に気づかせるという意図がある。つまり常識にあっている外れているではなく、あっている外れているなど"無い"と主張しているのだ。

2人が仲が良いから肯定する、2人のゆるい感じで笑わせるために肯定する、ではない。

常識という概念の変革を気づかせるために主張するのだ。

それを笑うのは、本当に常識が常識でなくなっているから、それに気づいているようでいなかったからなのだ。

これは既存の漫才の多くを否定する。

常識など無いのだからボケなどない、それにつっこむなんてお門違いだ、言われているのだ。

なのでここからはコンビならばお互いの価値観と価値観のぶつかり合いになる。

ツッコミが客の声を代弁するなんて考えない方がいい。


そして先に述べた主張という点においてだけでもぺこぱの技術は他の追随を許さない。

漫才のリズムが単調ではないのだ。説明の必要はないだろう。単調ではないのだ。

だから4分で飽きない、そして面白い。


漫才は次のステージに突入したと思うが、次のステージに突入してはないとも思う。なぜならぺこぱのなし得た事に気付いている世間ではないから。

ぺこぱのことを一切考えずに漫才に打ち込まなければ、やってられない芸人は多いように思う。

以上

追記

いーや、松蔭寺の主張の不必然性を面白がっている人もいるだろう、私の中にもそういう観点で笑っている自分がいるかもしれない。