「〜だと思っていて。」

インタビュー記事などに顕著に見られるこの文章を、「甘えを纏った」だの「社会的責任を回避している」だのと言い、あまり良くないものとして受け取っている人の意見がネット上で散見されていて、怖くなった。

そもそも単なる口語表現であって、話の上で使われる場合は自然なものである。
かつ、最初から文章で書くのであれば「〜だと思っています」という語尾が使われることになる。意味は特段変わらない。

つまるところ、これを批判するというのは「言い切り型でない語尾がまるで意見までふんわりさせようとしているように感じられる」か、「そもそも『思っています』という締めが『一個人の考えですが』的な予防線になっているように思える」というような意味で、
どちらにせよ言った人間が自分の発言に責任を持たなくて良いようにしていると感じられるというところに、嫌悪感を抱いているのだと思う。

ただ私には、基本的に語尾の一切が断定的でないほうが、賢明な人間の発言だと思える。

特に口語から変換している場合には、元は話し言葉だったということであり、その場でぽっと出ただけの根拠も何も集めてきていない話題に対して断定的に論じるということに、私はそういう人間性の方にはるかに強い嫌悪感を抱く。

そもそも主観を断定的に話す人間というのは、事実と主観を自分の中で捉え分けられていないか、捉え分けられていながらもあえて主観を事実かのように話し、相手を欺こうとしているか、または相手が勝手に理解してくれるものと思っているかのどれかだ。

受け取る側も、いくら事実として与えられた情報であれ、人間から伝えられたからには常にバイアスが掛かっているということを考慮することは大切だが、
だからといって発信する側が情報の受け取られ方について一切考慮しないというのは、そちらの方が余程発言に責任感を持っていないと言えると思う。

受け取り手は「事実っぽく伝えられたのでつい信じちゃいました」と言っても許されないし、発信側は「事実っぽく言ったけど皆さんが勝手に個人の意見だと汲み取ってくれると思ってました」と言っても許されない。

情報にどれだけのバイアスがかかり、どれだけの主観が混じっているのか、相互に精査することで初めて、双方責任を負っていると言えると思う。

「そもそも主観を発信するべきであるかどうか」等に関しては、それぞれシチュエーションによって変わってくるので各々で考えていただきたいが、そもそも芸能人のインタビューなどは主観を聞かれる場であるので、それに関しても混ぜこぜにされてバッシングを受けているのが非常に不憫だ。

まぁ正直、年々曖昧だった自分の意見を固めていくことではっきりした人間になろうとする、「断定」に向けて走っていこうとしている方々と、
子供時代の周囲が見えていない「断定」から解き放たれて、年々できる限り柔軟な考え方を受け入れようとする「許容」に走っていっている自分とは、そもそも相容れない存在ではある。

…と、思っていて。 

笑。


発言を曖昧にしようとする人というのは、
自分の発言で誰かが傷付くことを誰よりも恐れている、一番自分の発言に責任感を持っている人だということを、理解してほしいですね。

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