諦めなくてもいいかもしれん

現在個人的ブームの推しが無価値感とコンプレックスにまみれまくり人間で、
そのおかげか最近自己卑下や無価値感について考えることが増えた。

自分のことが大っ嫌いだ、好きだった試しがないと話すのも、褒め言葉を全て否定で返してしまうのも、気持ちはめちゃくちゃよく分かる。

ただ推しは努力しているし、普通の人は絶対できないようなことを文句も言わずやり遂げるし、客観的に見てマジすごいというところが私と違う点で、なぜそんなに向上心があるのに自己肯定感低いのかが謎でならない。

私が自己卑下に走るのは、自分を諦めてしまいたいからだ。
頑張りたくないし努力したくないし、いくらそれが後のためだとしても、今この瞬間嫌なことを我慢してやりたくない。
だから「私はクソだから」ということにして自分を諦めて、できないと言い聞かせて何もしない言い訳をしている。

時折自己否定をする人に対して「自分嫌いな自分が好きなんだろ」とか「そんなことないよって言われたいんだろ」とか言っている人を見るが、自分の場合は全くもって違う。

向上心の無さを自己卑下で誤魔化している卑劣な自分がこれまた嫌いだし、他人には自分と同じように私を諦めて、今以上の何かを期待しないでほしいと思っている。

何もしたくないから自分にも他人にも私を諦めてほしいと思っているくせ、プライドと承認欲求は人並みにあるのだから救いようのないクズとしか言いようがない。

と、こうして自分を諦めるための自己卑下がさらなる自虐を呼んで、本質的に自分が嫌になって、自分という存在に価値を感じられなくなっていく。

そしてそこから抜け出すための努力をせず怠惰でいる間は、自分からのパンチを受け続けても仕方がないと思っていた。


ただ最近、「頑張りを認めましょう」みたいな文を見て、少し考えが変わった。

その月並みな文を読む度に、私は「いや認めるも何も、そもそも頑張ったことがないからな」と思っていたのだけど、

それが「認めてない」ってことなのか?

という文法上スーパー当たり前のことに今更気がついた。

「頑張ってない」と思うことが「頑張りを認めてない」ってことなのか。
なんとなく、「頑張ったけどまだ足りない」(=見どころがあると思わないという意味の「認めない」)と思うことを指して言っているのかと思っていたが、みとめる、という言葉には「あることが確かだとみてとる」という意味もあり、つまりは「頑張ったと思わない」ことも頑張りを認めないという意味になる。

というわけで、今一度思い返してみると、
人並みに頑張っているかどうかは別としても、「頑張ったことがない」はどう考えても嘘だ。

仕事を自分で探そうともしないメンバーと現在行っている課題研究も、高校の諸費や交通費を自分で賄うために始めたアルバイトも、揉め事が耐えない家族間を取り持とうと一人必死になった日々も、案外頑張っていた。

辛くて苦しくて毎晩泣きながら頑張っていたのに、なんで全部頑張ってなかったことにしていたんだろう。

本気で気付かなかった。なんとなく、それは当たり前だから頑張ってるとかではないと思っていた。

でも意外と客観的に見ると、「頑張ってる」かもしれない。

現状何もしてないけど、努力したくないから私はくそだと思って諦めよう!と思っていたけど、案外現状も頑張ってるかもしれない。
もっとすごいことをしてる人から見たら鼻で笑われるかもしれないが、私が思ってるよりはマシだったと気付けただけで多少の進歩だ。

まぁ、もっと頑張らないと自分の理想に追いつけないことには違いないんだけど。

でも、みんな自分が思ってるより頑張ってるかもしれないよということで。

できれば自分を諦めずに、他人に諦めさせることをせずに、
誇りを持って尊敬する友人の隣を歩けるようになりたいと思った。

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