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福音の鐘の音はいらない。玉音放送を流してくれ。

 西宮が舞台の学園SFモノじゃないけど、本当にアイスピックで小突いたら真っ二つになりそうなぐらいの気温になりいよいよ年の瀬を感じるのだが特段これと言って何かに迫られている感じはしない。自分の中でひとつ片付いたことがあったからなのだろうがもうひとつ近々でなんとかしないといけない問題に関しては半分運任せなところがありいささか安心して年を越せる準備はできていないのが実情である。なんとも世知辛く苦労をする年になってしまった。おそらく来年も多少の余波が残ることは否めないがそれもそれで人生なのかもしれない。

 今年に入ってから青い鳥での発言に攻撃性が増し、どこにその敵意を向けているのか自身でもよくわかっていないような状況が続いた。誰が為に、何の為に。好きでもなくこの世に生を受けてからは自身のコンプレックスが常に付きまとい、自己肯定感は地球の裏側で一生バカンスをしている最中に本体は鈍色の空の下冷たい鉄路の上をひたすらどこに向かうのかもわからず進まなければならない・・・なんてことを恨み辛みとネタを交えながら思うままに筆を進めることをしていた。何も言うな、この作業やなんやらに何の意味もないことは誰よりも知っている。
 そんな中で素直な感想とともに告げられた一言が非常に強烈だった。「常に何かと戦ってる」
10年ほど前にもどこかで似たようなことを言われた、頭のHDDをSpotlight検索してみるとそんなシーンを切り取った部分だけが再生された。東京にある安い居酒屋の一幕だった気がする。本質なんてもんはそう簡単には変わらない。自身がそう言い切ったパッケージの中身は本心であったのかもしれない。往々にして上手くいかない、回らない、何かに抵抗し続けなければいけないなんてことを20年以上やってるとそのサイクルから抜け出すことすらできなくなってしまっているのかもしれない。ツイフェミをサンドバッグにW&Mのお紅茶をいただいたところで透き通る青空は視界に届くことはなく、引き続き鈍色の重たい曇天が延々と網膜に飛び込んでくる。いったいどこで間違えたんだろう。何をどうすればよかったんだろう。そんなことを自問自答したところで頭んなかのGoogle先生は現実のそれと違い無教養な人間を喜ばせるような答えを持ち合わせておらず、結局大阪環状線のように堂々巡りを繰り返すばかり。まだ山手線のほうがよかった。回ってるだけでとっ散らかることはないから。知らんけど。
 
 あらゆる面で、自身の市場価値というか介在価値というものに疑念を抱く1年だったのは間違いない。多分、というか確実に需要なんか考えてる時点で敗者であることを確定させるようなものなのに自信がないから自分の価値を確認したがりまた絶望の断崖絶壁からダイブする精神的自傷行為を止める手立てはあるのだろうか?幸い物理的な自傷衝動や希死念慮に襲われることなくここまで来ていることが半分奇跡な気がしてならない。自分の値段は自分で決めればいいって人には言うんよ。でも本当はそうじゃないことも知ってるし、値踏みされることへ恐ろしいほどの拒絶感があるのも確かだ。安いコンテンツとして消費される側にはなりたくない。無駄にエンパイアステートビルぐらいの高さを誇るプライドが許さないだけだろうと有識者の皆様の有難いご指摘をいただきそうなところはあるがお前ら消費されてから俺にモノを言え。でなければお前らに何かを言われる筋合いはない・・・多分こういうところが要所要所ににじみ出て常に何かと戦ってるドン・キホーテよろしく滑稽に映るんだろうな。

 となるともう自身を一つのコンテンツとしてギリギリのネタを展開していくほうが楽なのか?コンテクストになる素質がないことは学生時代から薄々気づいていたけれどもゴリ押しでなんとかしようと走ってきた結果がこれならば、答えなどすでに出ているはずである。頭と心の乖離にまだ苦しむことになりそうではあるがいい加減受け入れないと本当にただの痛い中年になってしまうのでさっさとなんとかしなければと頭では理解している部分である。そうなると心の部分はもうあきらめるしかないな。
 心を満たし、燃やし、尽くすことなんて今までにあっただろうか?意図的にアクセス制限がかけられたような形跡がある靄がかった記憶のファイルを修復していくと答えは出そうだがその結果に対して絶望を覚えるくらいならと修復を阻止しようとしているようなきらいもある。多分どこかにあるはずのものを展開した時に見える景色が、今以上にどんよりとしたものになりかねない。常にレッドアラートが鳴り響いている。
 とはいえもうさすがにアラートを聞き続けるのは疲れた。福音の鐘はいらないので、玉音放送を聞いたのちに安らかな眠りに入りたい。何かを得ることも成し遂げることも残すこともできないのであれば、生物としての介在価値もいよいよ風前の灯火。生きる意味とは、認めてもらえるとは、なんなのか。どうやら自身のGoogleでは検索するだけ無駄なようだ。

あ、別に今すぐ死のうとかそういう話じゃないから安心してもろて。
まだやることは残ってる。


割と本気で命の危険を感じた1年であったしその中も生かされた意味を自身に問うてしまったのがいけなかった。
元来性悪説とマイナス思考をベースに組み立てられた人間には何もしない時間で練り上げた思念など碌なものではない。
自身の立ち位置を無駄に理解しているというか、パネルボンドでラベリングされたものを剝がそうとして無様な足搔き方をしているように感じてならないのが正直かなりしんどい。
来年はもう少し安らげるような、生きていることを喜べるような年にしていきたい。

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