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桜の思い出

はじめに

今回のエピソードは実際の出来事に可能な限り沿って書いていますが個人が特定されないよう配慮しています。
またnoteにコメントを入れたいという連絡もいただいているのですが、以前のアカウントでコメント欄を荒らされてためコメントを入れられないようにしています。
ご意見ご感想はTwitterまでリプライしてもらえたら嬉しいです。

花見がしたい

2004年4月22日、私は手術中の迅速診断で卵巣がんと診断されました。
そして5月3日、病理検査の結果も卵巣がん(mucinous stage-1a)という結果が出て当時の主治医との話し合いの結果、抗がん剤治療を3クールだけ受けました。
(2004年に発刊された卵巣がん治療ガイドラインは抗がん剤は3-9クールになっていましたが今は違いますので注意ください)

私が入院していた病院は抗がん剤治療期間中はずっと病院に入院OKみたいなところで、家族も「入院してくれてる方が安心」だというので結果77日も入院していました。

そうなると当然のように長期入院している患者同士は顔見知りになっていくし「なんの病気か」ということはおのずと知るようになっていきます。
そんなとき、個室に長期入院されていたAさんと仲良くなりました。
私の祖母といってもおかしくない年齢のAさんは私を個室に招いては海外の綺麗なお菓子と温かいお茶を出してくれてお話をしてくれました。
ご家族が乳がんや卵巣がんで亡くなっていること、自分ががんと診断されたときのこと、治療がなかなかうまくいかないこと。
そしてクリスチャンだった彼女は必ず別れ際に私の未来が良いものであることを祈ってくれました。

私が退院して半年と少し経過した受診日、Aさんが会いたいと言ってると医師から聞きました。
「時間あったら帰り寄って欲しいらしいんやけど、帰りの新幹線まで時間あるなら顔を出してあげて」

ナースステーションで名前を名乗るとすぐに個室に通してもらえました。
Aさんはいつもとは違い少し呼吸が辛そうで、でも私の顔をしっかり見つめ「会いたかった」と笑いました。
明らかに具合が良くないのは察しました。
Aさんは細く細くなった手で私の手を握りぽつりといいました。
「この病院は桜が綺麗だから一緒にお花見したかったけど無理みたい」

正直いうと私はただその場にいるだけで必死でした。
当時の私は患者会活動をする前の31歳の主婦です。
命の灯火が消えかかってる、そんな人に会うのが人生で初めてでした。
なんて声をかけていいのかもわかりませんでした。

私は当時東京から大阪の病院に通院していたので「新幹線の時間があるから」といって早々に個室をあとにしました。
するとAさんの妹さんが追いかけてきて私の連絡先を尋ねました。
「姉にとって唯一のがん友なの」と言われ、友達なのに何もできない自分に胸が痛みました。

東京に着き家に向かう途中で、商店街のお花屋さんの入り口に桜の枝が刺さっているのが目に入りました。
数輪だけどつぼみと咲いているお花がある。
「これ大阪に送れますか?」
病院の個室のAさん宛にすぐに発送してもらいました。

数日後、Aさんの主治医から電話がありました。
「先ほど天国にいきはったよ」
「穏やかやったわ」
「桜の枝、喜んでたで」
私はAさんの主治医の言葉にもなんて答えていいかわからなくて「うんうん」と頷くだけでした。

3月、Aさんがみたかった桜を見ることなく私は東京の病院に転院しました。

桜が見れた

今日、ひとりの患者さんが天国に旅立たれました。

Bさんはスマイリーに連絡をしてこられたとき、こう言いました。
「卵巣がんが再発して治療にかなり苦戦しています。親も兄弟も子供も配偶者もいない天涯孤独です。できるだけ迷惑をかけない最後の迎え方を教えて欲しい」

これまでも「おひとりさまのがん」という話は知っていたし、独身の患者さんには何人にも会ってきましたし、天国に旅立たれる患者さんもいました。
でもたいていは兄弟がいたり子供がいたり、職場の方が責任を持って後のことは引き受けるという感じでしたが、Bさんは「誰もいない」とハッキリいいました。

Bさんとそこからは「対策委員会」ではないですが、月に1度は話をしながら最後の時間に向かって準備をしていきました。

お住まいをどうするのか
家財道具をどうするのか
葬儀をどうするのか
埋葬をどうするのか
猫ちゃんをどうするのか

私に後見人になってもらいたいとBさんは言うけれど成年後見人になるのはすごく大変です。
毎年のようにお金を着服してないとかわかる資料とか出さなきゃいけないし。
私は即答で断りました(こら
Bさんは市役所のなんでも相談で紹介してもらったという弁護士さんに最後の最後の細かいことをお願いすることに決めました。

はじめて連絡が来てから2年弱の月日が経ちました。

Bさんはご自宅で介護保険の範疇で介護をうけつつ最後の時間を過ごすと決めました。
「訪問看護師さんがいない時間になんかあっても数時間に1回は来てくれはるから腐る前に見つかる」
と彼女は相変わらず淡々と自分の死について話しました。

「片木さんにお願いがある」とBさんは言いました。
Bさんは医師から「今年の桜を見ることは難しい」と言われたと話し私にあることをお願いしました。

数日後、私は便利屋さんとBさんのおうちの前にいました。
Bさんの指示を受け私たちはBさんの家具や衣類をどんどん軽トラックに乗せていきました。
そしてそれらをリサイクル屋に持っていき買い取れるものだけ買い取ってもらい、あとのものは清掃センターに持ち込み多量ゴミとして引き取ってもらいました。
軽トラックで清掃センターに入る時と出る時に車の重量を測れる計測器に乗り、その重量の差で処分費用を請求されました。

Bさんのおうちの中はみかん箱に入るほどの下着と衣類、簡単な食器、レトルトのおかゆなど限られたものとベッドという殺風景な部屋になりました。

Bさんは不動産やさんと弁護士さんを呼び自分が亡くなったあとの残った衣類や洗剤などの処分費用や修繕費はどれくらいかかるのかといった話をしました。
「(弁護士さんの費用を払ってしまったら)スマイリーに余ったお金寄付しようとおもったけど余らないなぁ」というので、「お金が足りないじゃなくてよかったよ」と返しました。

Bさんは私のTwitterに届いた暖かい地域に咲いた今年の桜をみて喜んでいました。

東京も2月の後半は暖かい日が続き、Bさんにおでんを届けに行く途中で早咲きの桜が咲いているのを見つけました。
Bさんはこの頃には倦怠感が強く食事も要らない、外にも出たくないといいました。
お散歩のために車椅子を準備する私に当たり散らしました。

でも桜の木まで連れて行ったら車椅子の肘掛けをつかんで立ち上がり桜をじっと見ていました。
そして私のiPhoneを貸してといい写真を撮影してTwitterに投稿するよう頼みました。
「桜が見れたと伝えて欲しい」と。
青空の下を少し遠回りして家に帰ったらお腹が空いたといい、私が作ったおでんの卵を食べてくれました。

その後、徐々に徐々にBさんは言葉を発しなくなり眠っている時間が長くなりました。
もう私が訪れても目が合ってない・意識が落ちている感じがしました。
あとは訪問看護師さんと在宅医と弁護士さんに任せるようにしました。
そして今日、Bさんは天国に旅立たれたと連絡がありました。

Bさんが桜が見れたとTwitterに投稿して欲しいと願ったのは、きっと私のつぶやきに桜の写真を送ってくださったBさんとは繋がりがない人の優しさが彼女に染みたのではないかなと思いました。

私にとって桜の花は若い時は「青空の下で酒を飲んで騒ぐ口実」でしかなかったですが、最近は桜の花をみるとこれまでに出会ったいろんな患者さんの思い出がふっと降りてくるようになりました。

私の住んでいる地域はすごく立派な桜並木がありソメイヨシノが咲き誇ります。
少し歩いて井の頭公園に向かう風の散歩道にはたくさんの桜が咲き、公園内でも大きな桜が迎えてくれます。
今年もご時世ということもあり公園内での花見や宴会はできないでしょうけれども、桜の思い出と出会えるかもしれないので心のエネルギーがなくなった時は散歩に行ってみようと思います。

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