社会が育てた不寛容

アスリートのDNA(遺伝子)についての言及が元で、「無自覚の優生思想が広まっている」との話題が持ち上がっているのを見た。私は元教育関係職従事者として「個人の特性を大切にする」という観点で、この問題を取り上げようと思う。

書き終わってからアレなのだけど、「のび太が不快なものを消しまくったら地球上に自分一人だけになってしまい、退屈で、最後には途方に暮れた」という話を思い出した。「拡大解釈し過ぎ」と思われるかもしれないけど、「人を選別する」というのはのび太がやったことと同じだと思う。

優生思想とはなにか?

この話題を取り上げた殆どの記事の筆者が解説している。簡単に言えば「優れていると認められた人間だけが子供を残すことが出来る」ないしは「生きる価値がある」とする考え方で、これを国家政策として行ったのが悪名高いナチスドイツである。「そもそもナチスドイツ知らんわ」という人は、「その思想は危ないぞよく考えて物を言え!」と熱心に怒ってくれる人の言うことを黙って聞かなくてはいけない。厳しい言い方になるが、「調べるのも面倒くさい」という人は口を噤むべきである。それくらい、他者に対する冒涜的な思想であり、人権無視等と言う言葉すら生温い極めて悪質な考えなのだから。

現代においても、ナチスドイツは一種のサブカルチャーとして創作の舞台に登場する。その多くが現実のナチスドイツを賛美することを目的にしているわけではないと納得したいところであるが、現実のナチスドイツのやったことは人類史に残すべき悪業であると私は思う。無論、歴史を紐解けば、これは決してナチスドイツだけがやってきたことではない。様々な時代、様々な地域で同様のことが行われている。間違いなく言えることは、彼らがどれだけ素晴らしい業績を残したとしても、それがどれほどに苦渋の決断だったとしても、その考え方は許されてはいけないということである。

優れた遺伝子を残すことは悪か

一見、それだけを見れば有意義なことであるように思う。しかし、この論には必ず、「優れていない遺伝子を残してはいけないのか」「何をもって優れていると認めるのか」という2つの大きな疑問がぶつけられる。大抵、「優れた遺伝子を残すことは建設的なことである」とする論者は、「そうは言っていない」として議論することを避ける。私としては、「確かにそうは言っていない」が、「その2つの問題にぶつかることは必然である」と思う。だから、「そうは言っていない」と言って議論することを避ける行為は「明確な逃げである」と思う。この話題は人間の基本的人権に大きく影響を与える重大な問題であるから、「そこまで考えていない」のであれば、「口にすべきではない」話である。勿論、人間は間違えるものなので、うっかり口にしてしまって誰かを怒らせてしまったならば、謝ればいい。

さて、「何をもって優れているか」が最もわかりやすく見られがちな人種がアスリート、スポーツ選手であるかと思う。しかし、そういった言論を不快に思うアスリートも多いかと想像する。何故ならば、個人によって資質もその輝かしい成績に至った経緯も総てが異なるからである。例えば、自身の感覚を一番の頼りにして力を付けた選手と、理論の構築と実践を頼りにして力を付けた選手と、極端に言っても2者のパターンに分類できる。同じ成績だったとしても、実際にやったことが同じだったとしても、前者の優れた点は感覚の部分であり、後者の優れた点は理論実践能力であって、優れている部分が明確に違うわけである。

勿論、これは細かい話である。だが、こういう話を無視してはいけない。何故ならば、「人の優れた部分、美点は多岐に渡る」ということであり、「それを正確に見とるのは至難の業」だからである。故に「優れた点を引き出すことが出来る教育者や指導者」といった人たちが、「凄い」「力がある」と評価されるわけである。

優劣の基準という曖昧な刃物

「人の優れている部分を正当に認めることは難しい」とした。仮に「優れた遺伝子を残すべき」とするならば、誰かが判断しなくてはいけなくなる。これは非常に難しいわけなのだが、実際に基準を作り「劣っている」と判断した多くの人たちから人間としての権利を奪うということを、人類の歴史の先駆者が何度もやってきている。当然、この日本国でも。

私は常々、「スポーツ選手の人格を褒める」という内容のメディアを疑問視している。スポーツ選手はプレーの質、内容が全てであり、その他の人間性は観客には関係が無い筈だ。仮に、人格が優れているスポーツ選手がいたとしても、それはスポーツ選手として優れていることには必ずしも結びつかない。あくまで、人格が優れた人物であるということである。逆に、どれだけ不摂生な生活を送っているダメ人間でも、スポーツ選手としてのプレーが優れている選手は褒め称えられたりする。それは当然だ。スポーツ選手として優れているのだから、人間性は評価の対象になる筈が無い。当然、プレーの内容も一流で人格も一流という、とてつもなく凄い人も稀にいる(ようだ)。だけど、それは極めて稀有な例だと思うし、世界の殆どの人はそこまでのことを求めていない。例えば、サッカーの久保建英選手がどれだけクソ生意気であったとしても、サッカーのファンは彼が優れたプレイングをしてくれればそれで満足なのである。(久保選手、ごめんなさい。私はあなたのファンです。日本のJリーグでプレイしてくれたこと自体が、日本のサッカー界にとって貴重な財産だったと思うくらいにファンです。悪く言うつもりはなく、それだけ凄い選手だという意味でスポーツ選手の代表として名前をお借りしました。申し訳ありません。今後の活躍を期待しています。がんばれ!)

スポーツ選手としてのプレー内容と人格を区別して評価する風土は、特に欧州では当然のように根付いているように見える。欧州ではサッカーが地域に文化として根を張っていることは、現代日本人にも理解されつつあると思うのだが、ある日本人選手の言葉を紹介したい。「試合で負けたり活躍できなかったりするとめちゃくちゃ罵倒されて、次の日のアカウントが凄いことになる。けれど、勝ったりすると神様扱いですよ」人格は人格で評価されるのであろうが、それとは別に「スポーツ選手としては」しっかりスポーツ選手としての内容を評価してくれるのである。サッカー中継の試合後インタビューやニュース記事等を見ていると、日本にはこうした文化が無いように思う。

このように、「スポーツ選手としての力」と「その他の人格」を個別に評価する視点を持つと、例えば「仕事の技量は劣っていて」も「その他の人格が素晴らしい」人間は、果たして「劣っていると言えるのか?」「価値が無いと言えるのか?」と疑問に思う。輝かしい成績を持つアスリートを「優れている」とするのは、成績を残した「スポーツという1分野」だけを見た場合になるのである。また、そこに基準を持ち込んだとしても、「スポーツが優れている人間と、人格が優れている人間の間の優劣は決められるのか?」という議論が出来る。今の世の中で大きな声を上げている人達であれば、「金になるかどうか」「社会的貢献性」等を基準に持ち込むだろう。それで(なんとなく)比較することができるようにはなるが、結局限定された環境でしか意味を成さない「優劣」でしかない。(別の環境下で同様の結果を残せるか議論の余地がある。)「優れた遺伝子を残すべきではないか」という言葉は、人間の種や命、個人の権利といった深い部分に影響を及ぼす重い言葉である。意味を限定された「優劣」では、その言葉の意味にまったく合致しないのではないか。

ちなみに、私が個人的に「優劣の基準」を設定して人間を選別すると、確実に「私が好きな人」だけが選ばれることになる。それは「好きな人間を残そうとしている」のではなく、「私が設定した基準は所詮私の尺度でしかない」ものだからだ。簡単に言うと、それは「私が好きな」という形容詞になる。これを機械的に(個人的には十分恣意的だと思うけれども)設定して大罪を成したのが、ナチスドイツをはじめとする歴史の先輩達だということだ。

DNA、「生まれ」という不公平感

なんやかや述べてきたが、現代でこういった考え方が上る理由の一つには、「遺伝子というものに対する不公平感」みたいなものがあると思う。

例えば、身長一つとってもそうである。親族が長身揃いであれば、自然と自分も長身になっていく。これは食生活をはじめとする生活環境の影響も少なくはないが、生まれつき持っている「体」の特性の影響も小さくはなく、無視できない。科学・医学的な知見が私には無いので、細かいことは置いておくが、生まれによってある程度身体能力が決定されてしまうことは、人種という言葉に目を向ければさして否定できないと思う。

勿論、アスリートの側にも「努力をした」という言い分があり、これは重大な要素として認めるべきである。しかし、元教育従事者としては「個人の持った性質」に「得意・不得意」があることは強く念を押して言っておきたい。「努力すれば、いつか必ず実る」というのは嘘である。努力しても越えられない壁というものは現実に存在する。その一つは、生来持ちえた「体」である。

こういうことを言うと、(反射的な)反論として「どこまで努力したのか」という話になりやすい。そのように現実問題化するのであれば、さらに「努力は実る」という言葉の無責任さが浮き彫りになると言いたい。結果が出ないものを努力し続けるのは本人にとって非常に苦痛で困難であるし、それを続けることが出来る環境があって出来ることである。環境を揃えるのも努力の内だという意見は一理ある。しかし、それを許されるかどうかというのは個人の生きる環境の問題であり、本人の努力ではどうにもならないこともある。大抵、「そんな甘いこと言っていたら、当然結果は出ない」等と言われるのだが、ならば言わせて頂こう。「あなたは恵まれている」と。社会の問題や家庭の問題、自分の身体の問題等、様々な事情により、努力することすら許されない人たちが世の中には間違いなくいるのである。彼らに「がんばりが足りない」と言うのはとても冷たく、非情であると私は思う。

運動会は個性を認めない慣習である

「運動会は個性を認めない」という考えを述べたい。これは、「かけっこが不得意な子がいるのに、無理矢理競争させ、得意不得意を周知し、勝者を称賛する一方で、敗者には『君は劣っている』と印象付ける」という現象を一例に指したものである。運動が不得意な人がいても良いはずなのに、これは解せない。「運動だけが得意で、普段日の目を見ない子の活躍の場面だから、これはいいのだ」という意見を言う人がいるが、「ならば、わざわざ大勢の大人の前で嫌な思いをする子がいてもいいんですね?」と言いたい。「普段日の目を見ないこと」は別の問題であり、その人の為に他人が嫌な思いをしかねない場を作るのはおかしい。

やはり、こういうことを言うと「そんなことは言っていない」「解釈が間違っている」と言われるのだが、実際に行われていることはそういうことだ。「運動能力の優劣が人間の価値の全てではない」にも関わらず、「運動会で嫌な思いをし、運動会を嫌いになる」という話をよく聞く。「価値の全てではないのだから、嫌いでもいいのでは?」それはそうだ。しかし、「嫌な思いをした」ということを大きく考えるべきである。「大勢の前で恥をかく」「運動を嫌いになる」等はその後の生き方に影響を与える。「深刻に考え過ぎ」という人は、そういう経験をしたことが無いのかもしれないが、「そういう思いをする人がいる」ことを知らなくてはいけない。それが嫌ならば、他人に口を出してはいけない。世の中、いろんな人がいるのである。今回は細かい分析を省くが、明らかにお祭り騒ぎの感がある「運動会」というものがどうしてもやらなくてはいけないことだと私には思えない。そんな程度のもので、そんなに嫌な思いをする人がいてはいけない。ましてや、事故などのケースを考えれば、何故存続しているのか疑問ですらある。

強制参加でなければいいとも思うのだが、「集団心理から参加せざるを得ない」というケースがあることを考えると、「運動会等無くしてしまった方が良い」と私は思う。運動が得意で他が不得意な子が活躍の場が欲しいのであれば、本人が努力するか、指導者がそういう機会を意識して作ればいいし、そもそも「活躍の場が必要なのか」という話でもある。「活躍の場が無ければ、集団の中でいい思いができない」「孤立する」等と言う反論を予想するが、「活躍できなければ仲間外れになるような集団を重要視する必要はない」としたい。「集団に所属する」ことを美徳とするのは日本人の癖であり、至上の価値ではない。そもそも、子ども同士の付き合いにそういった思い入れを持ち込むのは、大人がそういった「集団に属していなければ、不利益を被る」という心理を持っているからであり、そんな不健康な心理を持たせる現代日本の大人の世界が間違っているのである。

勿論、「活躍の場」を意識する教育指導者も多い。重要なのは、他者を尊重する目と心を指導しているかどうかである。この視点を踏まえての「活躍の場」を設ける教育指導であれば、現実に則した指導であると考えられるが、これを軽んじて数字や運動会の活躍等といった上辺だけの評価を子どもに指導してしまう教育指導者は、自身がいじめの源泉になる。(と、敢えて断言しておきたい。)

まとめ・他者を大切に思うということ

ある基準を使って人に「優劣をつける」というのは、人間の一人一人の良さを認めない、人間性の無い考え方だと私は思う。「Aはいつもテストの成績が良い」「Bはいつもテストの成績が悪い」それは人間の優劣ではなく、あくまでも「Aはこのテストで良い成績が取れる」「Bはこのテストで良い成績が取れない」というだけのことである。優生思想とは、テストを絶対の基準として人間の優劣を区別して人権を奪う、非常に独善的かつ自己中心的な社会思想である。実害に及ばなければ、独善的な人がいてもいいし、自己中心的な人がいても良いだろう。しかし、優生思想は「人類はこうするのが良い」という自分以外の人々を巻き込む考え方である。だから悪質なのだ。

軽い気持ちで「言ってしまった」だけなのかもしれないが、「事故だとしても謝罪すべき罪である」という意見は正しい。ましてや、2020年7月末日に日本で話題の上るに至った原因は、著名人の発言である。無名の大衆ではないのだから、自身の社会的責任において謝った方が人として正しいと、個人的には思う。

余談であるが、本人が「個人の見解です」等と逃げ道を用意している辺り、昨年の誹謗中傷による自殺事件の際、原因であるTV番組側が「契約書を理由に無責任を通した」ことに対し、匿名のSNS利用者が「私は取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない」と自分から名乗り出て後悔と反省を口にしたということがあったのを思い出す。ともかく、本人に反省の気持ちが無いのであれば、他者を不快にさせ、いたずらに人の気持ちを煽る反社会的で有害な人間だと思え、嫌な奴だなーと感じる。個人の見解です。

今回、「優生思想」がふと大勢の人に注目されたのは、運動会を巡る心理のように、社会の不公正さに疑問を持っているのに、それを糺すことはおろか、自由に発言すらできない日本の大人社会の息苦しさ、「歪み」の表れだと私は感じる。みんながみんな、良いところも悪いところも公平・公正に認められる社会であれば、目に見える結果だけを重視した「あいつの遺伝子を残せば有益では?」等という発言は、大きな問題にならないと思う。

大局的合理的な観点から優生思想を「一理ある」等と捉えたとしても、様々な事情を抱えた人たちが今まさに生きているということ、他者を思いやることは忘れないで欲しい。優生思想のいきつく先は機械的な選民思想であって、私見ではあるが、その究極は「人間などという無駄の多い知性体は不要」な社会である。生きるべき人を「選ぶ」社会には、個人の自由は存在しないし、「人間らしさ」など一番最初に排除されてしまう。現実には日本の与党や中央省庁の官僚は水滸伝で倒されるべき悪しき宦官そのものであるが、本来全ての人は生きていてくれるだけで価値があり、決して不要などではない筈だ。本当は、生きている価値が無い人なんて1人もいない筈なのだ。

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