言葉を思う「絆」
この「絆(きずな、きづな)」という言葉、いかにも「温かな人の繋がり」のような感じで使われているように思うのだが、「良い意味ではないのではないか?」と思うことがあった。誰かが「ありゃあ、絆しだよ」と言っていたのである。そして、私は調べました。
言葉の意味するところが「流行によって決まる」であれば、「温かな意味」ももはや間違いではないのだろう。だが、個人的には本来の意味を理解した上で使用すべきであると思う。新たな意味、流行時の意味でだけ使用するのは良くないと思う。
何故ならば、言葉というのは「自分」と「他者」の間で使う「意思疎通のための道具」だからだ。
(事後加筆)
投稿直前に「いや、言葉は自分の考えを整理し、編集することにも使う。この場合、他者との意思疎通の必要はない」と思い至りました。まあ、なんだ、今回はそれは脇に置いておいてください。
「絆される」とはどういう意味か
「絆」という言葉の意味を考える時、ヒントになるのは別の読み方であると思う。それが「絆される」「絆す」という読みだ。「ほだされる」と読む。「人情に絆される」みたいな感じで使う。どういう意味だろうか。
「ほだされる」とは、自分の意思とは関係なく、相手の人情に流されてしまうということを指す。
「〇〇に絆されて、付き合ってしまった」というのは、「そのつもりではなかったのだが、〇〇の気持ちに流されて、付き合ってしまった」ということである。
善悪ではない。なんとなく、「仕方ないなあ」というセリフが想像される。
「絆」は自由を縛るもの
「絆」とは、犬や馬などの家畜を繋いでおく為の綱のことであるという。ここから、本来の意味は「束縛」「しがらみ」であるとされる。前述した「人情に絆される」という使い方は、「人情というしがらみに囚われる」という意味が込められているのである。
「人情に囚われる」のは「人情に価値を認め」、その上で「人情を無下にできず」起きる葛藤である。「人情に価値が無い」とするならば、「絆される」ことはない。だから、「絆されるのは悪いことではない」。むしろ、他者に共感できる人の善さといえるだろう。
だが、「絆される」のは「しがらみがあるから」なのである。「絆された」という結果が善意故のものだったとしても、「絆した」原因は「しがらみ」である。善意を絡みとる束縛なのである。
「絆」よりも素晴らしい善意があるのではないか
この「絆」という言葉は、2011年の日本の「一年を表す漢字」に選ばれた。選出の理由は、その年に起きた大災害と被災者を助けようとした人々の姿にあると思う。それ以降、明らかにメディアは「絆」を意識的に利用するようになったという感想が、私にはある。
言葉の意味を見ていくと、「絆」は「絆し」であり、「しがらみ」であるとわかる。ここから、例えば被災者を「助けること」「支えること」に「絆」を持ってくると、「助けることはしがらみがあるから」という方向に邪推してしまうことが考えられる。
何故これが「邪推」かというと、「しがらみがあるから助ける」ということは、「しがらみがなければ助けない」ということになり、「善意から助けたいと思ったわけでは無いのではないか」と連想できるからだ。「動機は自身の善意ではない」と思えるからだ。敢えて悪く言えば、「打算的な行動」「消極的な行動」に見えてくるのである。
被災者を助けたいという人々の気持ちは、本当に「しがらみ」故なのだろうか。私は「否」であると思う。中には打算的な人もいるかもしれないが、そうでない場合は「善意から出た気持ち」なのだと思う(思いたい)。その意味で言えば、こうした「温かな善意」「助けたい、支え合いたいという気持ち」を「絆」という言葉で表現するのは、誤りではないだろうか。絆などよりも、もっと素晴らしいものではないだろうか。
「家族の絆」という使い方は、意外と古くからあったように思う。そこに私が連想するのは「子は親を選べない」という、どうしようもない不自由である。「仕方なく結びついちゃった家族の縁なのだけど、協力してがんばるよ!」というのが「家族の絆」に込められた意味ではないだろうか。ここに「束縛」を意味する「絆」という言葉が適用されるのは極めて正しい。
だが、明らかな他人への好意、見返りの無い善意を「絆」と呼ぶのは、本当に正しいことなのだろうか。
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