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ビジネス歳時記 武士のおもてなし「朝顔」第37話

江戸の夏を盛り立てた、“花ひととき”の鉢花


7月は東京下町の入谷を皮切りに、各地で夏の風物詩として今も人気の朝顔市が始まります。朝顔は日本には中国から僧侶が漢方薬※として伝えたのが最初ですが、平安時代には源氏物語にも登場するように、観賞用としての栽培が行われていました。

その人気に火がついたのは江戸時代。素焼きの安価な鉢に植えられた朝顔は、狭い場所でも栽培できる手軽さが受けて、地方からの単身赴任で江戸屋敷に住む武士たちや長屋住まいの庶民にまで広まり、人気になりました。
今号は、その朝顔に魅せられた薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)※を中心に、武士も夢中になった江戸の園芸のお話です。
 
江戸の朝顔ブームは文化・文政期(1804~1830)と、嘉永・安政期(1848~1860)と2度ありました。文化6年(1809)、最初の朝顔ブームの時代に江戸で生まれ、青年時代まで過ごした島津斉彬は、その後も江戸と薩摩を行き来していました。彼が8歳の時に描いたという朝顔の絵は、鹿児島の地元にある仙巌園・尚古集成館※に残されており、幼少期から朝顔好きだった片鱗がうかがえます。
 
実は朝顔ブームは、江戸の大火が契機になったといわれています。文化3年(1806)の大火で建物が焼けて空地ができた場所で、植木屋たちが朝顔の鉢などを並べたことから注目を集めるようになりました。

文化13年(1816)には、「花合せ」という朝顔の品評会が浅草寺や寛永寺などで開かれ、番付表などが発行されるほどでした。そのころから、従来の花や葉の姿と違った変化朝顔※が出始め、高値がついて投機の対象となり、下級武士たちの内職として注目を浴びることになりました。
 
遺伝子の仕組みを説いたメンデルの法則(1865)より前に、変化朝顔の交配の技術をもっていた武士や植木屋たちがいたというのは驚きです。少し時代は遡りますが、そうした卓越した園芸の技術をもっていたのが尾張藩士の三村陳富(みむらのぶとみ)※です。

享保21年(1736)、多くの朝顔を育てていた陳富は園芸の腕を見込まれて、徳川吉宗から賜った朝鮮人参の栽培を成功させて薬草園の責任者に大抜擢されます。その後、吉宗から3回も褒美をもらう活躍をしました。

一方、斉彬の場合はのちに家臣たちによって書かれた覚書では、朝顔の栽培を“殿さまの道楽”として記されています。その知識は江戸の暮らしで覚えたのでしょうか。かなり専門的で、春半ばから自ら種子を蒔き、「鉢数大形三百斗」に植え替えもしていたことが分かります。おそらく木製の300個の一斗樽などに朝顔の苗を移植していたのでしょう。

「朝ごとに能開き見事の儀」と、朝から次々に咲く花を楽しみながら手入れをする様子がうかがえます。安政期の朝顔の2度目のブームのころには本格的な変化朝顔の人気が出てきますが、斉彬も変化する品種を期待して数多くの苗を栽培していたのでしょう。

一方、そのころ、国内はペリー来航、日米和親条約が結ばれるなど、藩主としての斉彬の政治的な手腕が問われる出来事が続きます。その中で、養女の篤姫(あつひめ)※を徳川家に嫁入りさせるという慶事がありました。

政略結婚としてのお輿入れを画策した斉彬といわれていますが、嫁ぎ先に送る品々の中には娘を気遣う父の様子が垣間見えます。安政4年(1857)の夏、斉彬は「御鉢盛御菓子」、「泡盛と御干肴」などと贈り物を連日のように届け、自慢の朝顔は「朝かほ拾五鉢、右ハ御庭焼御鉢江御植付二而 御慰二もと御献上被遊候」と続きます。

斉彬が篤姫を慰めるために、敷地内に窯を設けて焼いた特製の植木鉢に植えた、心尽くしの特別な朝顔を用意したのでした。
 
「朝顔の花一ひととき時」とは、朝開いて午後には萎れてしまう様子から、物事の衰えやすい儚さをたとえた言葉。そんな朝顔の潔い美しさと儚さに魅かれていた斉彬ですが、その1年後には、50歳の生涯を閉じることになるのです。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※漢方薬
朝顔は、ヒルガオ科のつる性の一年草。遣唐使が種子を薬として持ち帰り国内に広まった。種子は漢名で「牽牛子(けんごし)」。下剤や利尿剤などに使われる。

※島津斉彬 [1809-1858]
江戸後期の第28代薩摩藩主。藩政の刷新をはかり、殖産興業として製錬所、反射炉を設置し、日本初の軍艦を建造したほか、紡績機械など多くの従業員を擁する総称「集成館事業」を興した。

※仙巌園・尚古集成館(せんがえん・しょうこしゅうせいかん)
斉彬が興した事業の全貌が分かる「尚古集成館」、桜島や錦江湾を借景にした庭園「仙巌園」などがあり、2015年に「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産登録となった。https://www.senganen.jp/

※変化朝顔
花びらが八重咲きや細かく切れたり、葉が縮れたりなど、朝顔とは思えない花や葉の形になった突然変異系統の品種。嘉永・安政期には、「黄縮緬立田芝舟竜葉 鳩羽色車咲」などの見立てによって名前がつけられた。現在、平成版変化朝顔を作ろうという動きが出ている。

※三村陳富[1691-没年不明]
尾張藩士。本草学者。号:三村森軒。享保8年(1723)、33歳の時に趣味で最初の朝顔の専門書『朝顔明鑑鈔(あさがおめいかんしょう)』を著す。

※篤姫[1836-1883]
13代将軍徳川家定夫人。名は敬子、のちの篤姫。薩摩藩主一門島津忠剛の娘で島津斉彬の養女。安政3年(1856)に徳川家定に嫁ぎ御台所となった。1858年7月の家定の死に伴い落飾して「天璋院」となる。


参考資料
『荻島家文書(薩摩藩奥女中関係)一』
(八王子市郷土資料館編集 八王子市教育委員会)
『島津斉彬』(網淵謙錠著 PHP研究所)
『島津斉彬言行録』(牧野伸顕序 岩波文庫)
『島津斉彬公伝』( 池田俊彦著 中公文庫)
『江戸のガーデニング』(青木宏一郎著 平凡社)
『江戸の花競べ』(小笠原左衛門尉亮軒著 青幻舎)
『伝統の朝顔 Ⅲ ―作り手の世界―』
(国立歴史民俗博物館)
『花開く江戸の園芸』
(江戸東京博物館 開館20 周年記念特別展)



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