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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第52話「春告魚」

北前船が北国と京都を結んだ、 由縁の魚

〽沖のカモメに 潮時問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け──おなじみの民謡「ソーラン節」で、カモメに尋ねているのは、寒流系海水魚のニシンの群れ。雪解けの春に北国に押し寄せることから、春告魚(はるつげうお)とも呼ばれています。

江戸時代半ばから、主だった蝦夷地の漁場が少しずつ広がりました。そのニシンを運ぶために、商人たちが競い合うように木造の北前船※で日本海側の寄港地を巡り、土地の商材を売り買いしながら大きな富を得たともいわれています。
 
今回は、ニシンの漁場を巡って蝦夷地に君臨した松前藩の松前慶広(まつまえよしひろ)※が、厳しい自然環境の中でどのような手腕で実権を握る好機を得たのか、ニシンにまつわる歴史と文化について辿りたいと思います。

蝦夷と呼ばれた北海道で、本格的なニシンの漁獲に携わるようになったのは15世紀の室町時代に入ってからといわれています。当時、冷涼な気候で水稲が栽培できない北国の松前地方では、米に代わる年貢としてニシンが幕府に認可されていました。慶広が“無石の大名”と揶揄されても、彼は「鰊(にしん)」を「鯡(にしん)」と書き、米にも匹敵する価値で「単なる魚に非あらず」という主張を貫きます。

彼が農民ではなく漁民が揚げるニシンを年貢として納めさせ、それをもって時の将軍たちに取り入る手腕は、大名よりも外交官の資質があったのではないかという歴史家の評価もあります。

慶長9年(1604)、慶広は蝦夷地の統治者として初代松前藩主の名乗りを上げますが、それ以前の文禄2年(1593)に豊臣秀吉、慶長4年(1599)には徳川家康の元へ拝謁し、ニシン漁場のさらなる拡大の許可状を得るために動いています。

彼が米の代替品として選んだニシン。内臓を除いて干物にした「身欠きニシン」は貴重な動物性たんぱく質の保存食に、卵巣は高級な「数の子」、除いた内臓は農業で使う肥料として魚肥など多彩に活用されていました。

この時代から、松前藩は時の将軍へ身欠きニシンと数の子を献上するのが恒例となりましたが、秀吉と家康の元へ赴いた時にも間違いなく持参したことでしょう。

なかでも周りの筋を取り、一度バラしてから再び寄せて固める「寄(よせ)数の子」は、加工に手間のかかる作り方で、特別な献上品とされていました。すでに、1590年代には秀吉が大名の前田利家から受けた饗応の膳に数の子が使われており、特権階級の間で、もてなしに使われていたことがうかがわれます。
 
こうして、慶広は蝦夷地におけるニシンの漁場拡大のお墨付きをもらい、家臣には禄高の代わりにニシンの漁場を与えて、さらなる実権拡大へと野望を抱き、ニシンが豊漁の年には “松前の殿様はニシンでお茶漬けをなさる”といわれるほどになりました。

そして、晩年はその財力を使って京都の若い公家の花山院忠長(かざんいんただなが)※のお世話をすることになります。22歳の忠長は宮廷の女官たちと問題を起こし、蝦夷地で謹慎の身となったのです。

慶長15年(1610)から慶長19年に津軽に移動になるまでの5年間、慶広は松前郡の万福寺で客人として忠長が暮らしに困らぬように丁寧にもてなし、季節の花見に誘うなどの心配りをしました。

その背景には、忠長の姉が徳川家康の所縁の女性という話もあり、慶広としても自身の権力を維持し、家族の安寧のための大切な客人として考えていたのかもしれません。実際、その後の末裔が姻戚などで新たな人間関係を作ることになったともいわれています。

ところで、北前船が松前から運んだニシンから始まった料理に、京都の甘露煮にした身欠きニシンを蕎麦の上にのせた「鰊蕎麦」や、ニシンを昆布で巻いて炊いた「鰊巻き」が有名ですが、松前にも同じ料理が伝わっています。

おそらく、慶広が亡くなる2年前まで、自分の息子ほど歳の離れた忠長をもてなし、面倒をみていたのには、自身の土壌にはない雅な京文化に対する憧れがあったのかもしれません。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※北前船
江戸初期から明治時代にかけ、日本海沿いを航路として大坂までを結んだ買積船。その船の形から、千石船や弁財船などとも呼ばれた。西へ上る積荷は“蝦夷三品”といわれたニシン・サケ・昆布などの海産物で、下り荷は米・塩・木綿・古着・酒などで船主が荷主を兼ねていた。

※松前慶広[1548 - 1616] 
安土桃山時代から江戸時代前期の大名。蠣崎季広の3男。豊臣秀吉に蝦夷地支配公認の朱印状をもらい徳川家康からアイヌ交易独占権公認の黒印状を交付され、近世大名の地位を得る。

※花山院忠長[1588 - 1662]
江戸時代前期の公家。慶長14年(1609)飛鳥井雅賢、烏丸光広らとともに宮中の女官たちと密会したことが発覚して松前に流される。後年、刑が解かれて出家し浄屋と号した。


参考資料
『ニシン文化史─幻の鰊・カムイチェップ─』(今田光夫著 共同文化社刊)
『週刊朝日百科81 世界の食べもの 日本編』(朝日新聞社)
『事物起源辞典』(朝倉治彦他編 東京堂出版)
『たべもの起源事典』(岡田哲著 東京堂出版)
『北海道の歴史 県史1』(田端宏著 山川出版社)

・北海道福島町 福島町史第二巻通説編 第一節 漁業の変遷
https://www.town.fukushima.hokkaido.jp/kyouiku/%e7%a6%8f%e5%b3%b6%e7%94%ba%e3%81%ae%e6%96%87%e5%8c%96%e8%b2%a1/%e7%a6%8f%e5%b3%b6%e7%94%ba%e5%8f%b2%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%b7%bb%e9%80%9a%e8%aa%ac%e7%b7%a8%e4%b8%8a/%e7%ac%ac%e4%b8%89%e7%b7%a8%e7%ac%ac%e4%b8%89%e7%ab%a0%e7%ac%ac%e4%b8%80%e7%af%80/


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