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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第53話「籍田」

慈愛の心で導いた、鷹山の米づくり

5月に入ると、日本各地は田植えの季節を迎えます。GWに田植えの手伝いも兼ねて帰省するという話を聞くと、やはり瑞穂の国の稲作文化が脈々と続いている歴史を改めて感じます。
 
ところで、米の銘柄は数多く、山形の「つや姫」もブランド米として知られていますが、同じく山形県・米沢市の「上杉籍田米(うえすぎ せきでんまい)」※はご存知でしょうか。江戸時代中期に厳しい経済状況から藩を立て直し、今でも市民に“鷹山公”と慕われる、米沢藩9代藩主の上杉鷹山(うえすぎ ようざん)※ゆかりの特別栽培米です。

今回は、石高で藩の力が計られる江戸時代にあって、極貧の窮地にあった経済状況から、鷹山はどのようにして藩士や民衆を奮起させ、今日のような米どころといわれる地域までに変えたのか。人の心を動かした施策とともに、そのおもてなしの逸話をご紹介したいと思います。
 
かつて120万石を誇った上杉家ですが、その婿養子となり、明和4年(1767)に弱冠17歳で鷹山が第9代米沢藩主となったとき、かつての禄高は8分の1の15万石に落ち、藩の経済状況はまさに火の車状態でした。

その理由としては、関ヶ原の戦で敗けた西軍の石田三成側について徳川家康に疎まれたことや、上杉家の直系の世継ぎが途絶えるなどさまざまありましたが、問題は抱える家臣の多さ。上杉家へ仕えることに誇りを持った家臣たちは6000人のままで、借財を20万両(1両を6万円で換算して約12億円)も抱えたままでした。
 
普通なら、リストラを敢行するところでしょうが、明和6年(1769)に19歳で江戸から米沢入りした鷹山が詠んだ和歌が「うけつぎて 国のつかさの身となれば 忘するまじきは民の父母」。若い藩主は、そのときから藩士や農民など米沢藩の領民をすべて自身のこととして考える、リーダーとしての道を歩み始めたのです。

安永元年(1772)、22歳の鷹山は古代中国の君主に倣い、豊作を祈り自ら汗を流して田畑を耕す「籍田(せきでん)の礼」を取り入れ、領民たちに農耕に励むよう、士気を高める行動を起こしました。そこには度重なる干ばつなどで、荒れ果てた田畑を捨てて米沢から離れる農民の実態を見て、農民たちには諦めない強い心を、家臣たちには労働することの大切さを、自身の実践を通して説くことから始めました。
 
彼は竹俣当綱(たけのまた まさつな)※ら重臣たちの進言も聞きながら、ひとつひとつ難問に取り組みました。年貢を納める期間を延ばしたり、藩士を江戸の農業の専門家に学ばせて指導者として育て、農民の相談に応じられるように領内に常駐させるなど、次々に具体的な策を実行していきます。

また、安永3年(1774)の鷹山24歳の時には、飢饉に備えて籾のまま米を備蓄する蔵の建設を始め、備蓄や運営には農民の自覚も促して、天明の飢饉※などでも最少の被害で食い止めたとされています。
 
一方、鷹山は長寿者や孝行者には褒美を出して表彰しており、なかでも米づくりにまつわる老婆との話が知られています。ある日、干した稲束の取り入れをしていた遠山村の老婆が、夕立が降りそうで手が足りずに困っていたところ、通りかかった2人の武士が手伝ってくれました。老婆は、このお礼として新米で搗いた餅を届けたいと言うと、武士は米沢城の北門の門番に話をしておくからと答えました。

後日、餅を持って出かけると、城の中で待っていたのは鷹山で、鷹山に日頃の勤勉さを褒められ褒美として銀貨を贈られたというもの。作り話ではないことは、安永6年(1777)に老婆が嫁いだ娘に、このことを手紙に書き、その褒美で特製の足袋を家族それぞれに贈ったことから、鷹山の優しい心遣いが事実だったことが伝わっています。

そののち、2014年5月、山形県西置賜郡白鷹町の白しらたかやま鷹山の頂上に2基の石碑が建てられました。鷹山の名前は、この山の名前からつけられたと言われ、石碑のひとつは鷹山の「伝国(でんこく)の辞(じ)」※を刻んだもの。もう1基は、上杉鷹山を敬愛していたとされるケネディ元米国大統領の就任演説の一節。権力に奢ることなく民とともに生きた鷹山の姿勢は、海を越えた政治家にも深い影響を与えたのでした。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※上杉籍田米
「勤労を尊ぶ鷹山公の心」を後世に伝えるため、昭和63年に米沢稔りの会が特別栽培米として減農薬や無農薬栽培で作り続けている米の品種。同会では毎年5月に鷹山公を偲び、上杉鷹山公籍田之遺跡の水田で田植えも行っている。米は購入することができる。
http://www.minorinokai.com/sekiden/

※上杉鷹山[1751 - 1822]
高鍋藩(宮崎県)秋月種美の次男。上杉重定の養子となり、明和4年米沢藩藩主上杉家9代を継ぐ。倹約を奨励、農村復興や殖産興業政策などで藩財政を改革した。天明5年(1785)に隠居したあとも、跡継ぎの治広を支えて善政に励み、72歳で死去した。

※竹俣当綱[1729 - 1793] 
藩主上杉鷹山のもとで江戸家老から奉行筆頭となり藩政の改革を担当。財政再建、殖産興業、新田開発などを進めたが、天明2年(1782)改革の途中で遊興に走り解任となった。

※天明の飢饉
享保の飢饉、天保の飢饉と並ぶ江戸時代三大飢饉の一つ。 天明年間(1781~1789)には毎年のように飢饉が発生し、特に天明3年(1783)と天明6年は悲惨な状況だった。

※伝国の辞
鷹山が次の藩主となる上杉治広に伝えた「藩や領民のために存在・行動するのが藩主であり、藩主のために存在・行動する藩・領民ではない」など3条からなる心得。


参考資料
『シリーズ藩物語 米沢藩』(小野榮著 現代書館)
『上杉鷹山』(横山昭男著 吉川弘文館)
『上杉鷹山と米沢』(小関悠一郎著 吉川弘文館)
『黒井半四郎と地域づくり~置賜の水の恵みをめぐって~』(香坂文夫著 遠藤書店)
『上杉鷹山のリーダーの要諦』(佃律志著 日経ビジネス人文庫)

・論文「米沢藩の財政改革と上杉鷹山」大矢野栄次
https://irdb.nii.ac.jp/
・論文「上杉鷹山の藩経営における倫理観の研究」石塚光政
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jabes/11/0/11_KJ00006737458/_pdf/-char/ja



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