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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 「歳暮」 第24話

年取り魚の鮭にかけた郷土愛

何かと気ぜわしくなる季節の、師走。ボーナスと同時に、お歳暮のシーズンでもあります。コンプライアンスで虚礼廃止をする企業も増えているようですが、お歳暮は実は江戸時代に武士の間で根付き始めた慣習です。

武士社会をサラリーマン社会に重ね合わせると、実力は石高(こくだか)で想像できます。将軍は社長、1万石以上の大名は役員といったところ。平社員である武士たちが直属の上司として歳暮を贈った相手は、組頭と呼ばれる、現代で言えば課長や係長あたりでしょうか。当時は貴重品だった和紙や、身だしなみに必要な鬢付け油や諸国名産品などを贈ったようです。

そして、大名たちの間では、年取り魚※として塩鮭を歳暮に贈ることが流行しました。後に、それを一般庶民たちが真似たのが、荒巻鮭(あらまきじゃけ)※の始まりとされています。

ところで、かつては大名が高級な贈答品としていた荒巻鮭を、現代の私たちが食べることができるのは、新潟県は村上藩の藩士である青砥武平治(あおとぶへいじ)※の功績ということはご存知でしょうか。村上藩があった村上市※では、古くから市内を流れる三面川(みおもてがわ)での鮭漁が有名ですが、当時は年々漁獲高が減り、漁場争いが起こるようになっていました。藩は貴重な財政源を確保するために頭を悩ませていました。

14歳で藩士となった武平治は、3両2人扶持(米を一人あたり毎日5合の現物支給だけ)という貧しい下級武士でしたが、免許皆伝という測量技術を身に付けて、地元の河川整備を通して鮭漁に画期的なシステムを導入した人物として知られています。

その方法は、測量の技術を活かして、三面川を正確に把握することから始まりました。武平治は、毎年、鮭が同じ場所に産卵に帰ってくる回帰性を知ります。そこで、川を鮭の産卵に適した環境に整える、「種川の制」という方法を思い付きます。それは、産卵に適した川の分流を杭や藤蔓などを使って整備し、遡上してきた鮭を追い込み産卵させ、その卵を育成してから春に本流に戻すという方法です。

それが画期的なのは、自然を破壊することなく、鮭を保護しながら“天然産卵”させ、資源を増殖させるということ。これに倣って、東北や北海道などの国内各地の河川でも行われるようになりました。自然と鮭の両方を守りながらの天然繁殖法として、世界の水産史上でも誇れるシステムと評価されています。

一人の下級武士にすぎなかった武平治ですが、この種川のシステムで財政難にあえぐ村上藩の危機を救い、人々が荒巻鮭で新年を祝いもてなすという伝統食を残してくれました。ちなみに、その恵みに感謝して村上では、鮭の頭から骨に至るまで余すところなく百種類もの料理を生み出し、もてなす食文化が根付いています。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※年取り魚
年取りの行事の食卓に白飯と一緒に出す魚。塩鮭や塩鰤(しおぶり)などが使われる。糸魚川と静岡を結ぶフォッサマグナを境として以西は鰤とされている。

※荒巻鮭
内臓を除いた鮭を甘塩で漬けたもの。荒縄や藁などで粗く巻いたことから、荒巻鮭とよばれた。江戸時代後期から主に歳暮や正月の贈答品とされる風習が一般化した。新巻鮭の字が使われるようになったのは、明治以降で、「新しく収穫された鮭」「新物の鮭」と解釈されるようになったと考えられている。城下町の村上では武士の切腹を忌み嫌うことから腹を全部切り開かず、「塩引き鮭」と呼ばれ、尾から吊り下げるなどの製法で作られる。
 
※青砥武平治(1713-1788)
越後国岩船郡村上町に生まれる。越後国村上藩の藩士。鮭の回帰性を利用した増殖方法である「種川の制」を考案したことで知られる。
 
※村上市
新潟県北部の旧村上藩の城下町を中心とした人口約6万5000人の市。藩の殖産興業策から発展した三面川の鮭漁はいまも盛んで、市内には鮭の生態がみられる鮭の博物館「イヨボヤ会館」(http://www.iyoboya.jp/)がある。
 


参考資料
『シリーズ藩物語 村上藩』大場喜代司著(現代書館)
『三面川の鮭』横川健著(朝日新聞社)
『江戸っ子の春夏秋冬 続「半七捕物帳」江戸めぐり』
 今井金吾著(河出書房新社)
『隠居大名の江戸暮らし 年中行事と食生活』江後迪子著(吉川弘文館)
『食物誌』石毛直道他(中央公論社 中公新書)
『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』(小学館)


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