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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 「梅屋敷」 第28話

江戸の早春を待ちわびた、「梅癖」の武士たち

「梅一輪、一輪ほどの暖かさ」(服部嵐雪※)。早春の陽だまりを喜ぶように、一輪、また一輪と咲きほころぶ梅の花。三寒四温の天候が続く2月は、「梅見月」や「初花月」とも呼ばれて、各地で梅まつりの行事も行われる季節です。各藩の大名屋敷が点在した江戸市中では、屋敷内に梅の木を好んで植えていた武士も多く、愛好家たちの交流も盛んに行われていました。今回は、今風の“梅オタク”とでもいう「梅癖」のある武士の梅屋敷にまつわるお話です。

寒さがまだ厳しい季節に、どの花よりも早く咲くことから「花の兄」ともいわれる梅は、薬用として渡来した中国原産の植物。その名が最初に見られるのは、奈良時代の『懐風藻(かいふうそう)』という漢詩集の中で、早くもここで「梅に鶯」の組み合わせが登場しています。その後、歳時の行事として、平安貴族の間で梅の花と香りを楽しむ宴を開く「観梅」の習慣が広まりました。

今では日本の花というと桜が挙げられますが、梅は万葉集では桜の3倍の約120首もの和歌が登場している人気ぶり。花見といえば「梅見」で、鶯が訪れる梅の樹を持ち去られた紀貫之の娘が和歌で直訴する「鶯宿梅(おうしゅくばい)」※や、菅原道真の詠んだ和歌に応えて左遷先に紅梅が飛んでいった「飛梅(とびうめ)」※の故事や伝説には、桜にはない梅に精神的な拠り所を置いていた人々の暮らしぶりが見受けられます。

貴族や文人など“主あるじを持った梅”の思想は、清廉高潔を尊ぶ武士にも好まれ、庭木だけではなく「盆梅」のような鉢植えなども人気になりました。大事な梅の鉢植えを薪にしてもてなす謡曲「鉢木(はちのき)」※も、そんなところから創作されたのでしょう。

また、梅は観賞だけではなく、「南高」や「白加賀」などの品種は果実が食用の梅干になる実用性もあることから、大名屋敷に植栽をすることが奨励されました。もっとも、大名屋敷に池泉回遊式など特色のある大名庭園が設けられるようになったのは、明暦3年(1657)の大火後のこと。火災ですべてを焼失するリスクを避けるために、屋敷は大きく「上・中・下」と3つに分散させ、「下屋敷」※には客人を招く茶室を設けた屋敷や、梅林などを植栽した庭園を設えることが多かったようです。

そんな中、江戸で将軍の身辺警護の役を担っていた春田四郎五郎久啓(はるたしろうごろうひさとお)※は三河譜代で450石取りの旗本で、梅の研究家、育種家としても有名でした。現在の東京都千代田区六番町あたりにあった「韻勝園(いんしょうえん)」と名付けた屋敷には、独自に栽培した新品種を含む数百株の梅を蒐集栽培して11代将軍の徳川斉に献上したり、松平定信を自宅の梅園に招いて観梅の宴でもてなすなど、公私ともに認められた「梅癖」の一人だったようです。

また、文化8年(1811)には春田が自ら写生・解説した約百種の梅の図鑑『韻勝園梅譜』を上梓。その序文を書いているのは近江(滋賀県)の宮川藩第5代藩主堀田正穀、表紙の題字を寄せているのは備後(広島県)の福山藩第5代藩主阿部正精というように、藩を越えた梅の交流がありました。

春田は梅譜の後書きで「風流で珍しいおもむきは、その右に出るものがない。梅花がかぐわしく咲きにおうと、即座に花の姿を一々模写して、日常の清らかな楽しみにそなえる。中略。もし詩人や風流人が私の好みに同意してくれれば幸いである」(現代語訳)と結んでいます。

その言葉通り、請われると春田は武家以外の町人でも梅屋敷を気軽に案内したといわれています。江戸名所図会にもあるように、植木屋が開いた「亀戸の梅屋敷」などの観光名所が10カ所以上もあり、武士や町人たちも観梅の行楽を楽しむようになっていましたが、「韻勝園」のような梅屋敷は、なかなか見られないところだったようです。

その中で、職域を超えて「梅癖」の仲間と交流をした春田は、自慢の梅屋敷を分け隔てなく公開し、78歳の高齢で職を辞するまで、梅に魅せられた人生を送ったのでした。
 
【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※服部嵐雪 [1654-1707]
江戸時代前期の俳人。芭蕉に師事し、「蕉門四哲」といわれる一人。武家奉公をしたのち、剃髪して俳人となる。

※鶯宿梅
村上天皇が宮殿の梅が枯れたので、京のとある家の梅を移し植えようとしたが、「この梅の樹を尋ねてやってくる鶯に、どう説明したらいいのでしょう」という意味の歌が枝に結びつけてあった。その家の主が紀貫之の娘であったことを知り、深く感じてその樹を返したという故事。
 
※飛梅
菅原道真が九州の大宰府に左遷されて家を出るときに、大切に育てていた梅の木に「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」と詠んだところ、その梅の木が大宰府に飛んできて根付いたという故事。
 
※鉢木
北条時頼が旅の途中に迷い、民家を訪ねる。宿主の佐野源左衛門常世は貧乏ながら粟飯を振る舞い、大切な梅の鉢植えなどを燃やして暖をとらす。源左衛門は落ちぶれた武士だが、有事には鎌倉に駆け付けると話す。その後、軍勢を召集したときに約束通りやってきた源左衛門に、時頼は感激して褒美を与えたという物語。
 
※下屋敷
幕府は江戸の都市計画で、重臣の屋敷を城外に移し、大名屋敷を上屋敷、中屋敷、下屋敷の3つに分けた。上屋敷は登城に便利なように西の丸下、丸ノ内や外桜田に集めて大名とその妻子が住み、大名のあとを継ぐ世嗣の邸宅の中屋敷は外堀の内縁に沿った範囲に配置し、下屋敷は四谷、駒込など江戸近郊で、庭園などを設けて野趣豊かな別荘としても使われた。
 
※春田四郎五郎久啓 [1762- 没年不詳]
三河(愛知県)譜代の旗本として、江戸で西丸新御番組頭(将軍の身辺警護)をしながら、梅の研究家、育種家としても活躍。天保11年(1840)に78歳で職を辞するまで、日々の業務の傍ら梅の新しい品種を接ぎ木や実生で栽培し、園芸愛好家たちが手本とした梅譜の『韻勝園梅譜』を編集した。
  


参考資料
「神代植物公園特別企画展 梅 いまよみがえる江戸の光彩
―神代植物公園所蔵『韻勝園梅譜』の全容―」
(東京都公園協会 神代植物公園サービスセンター)
『図説 俳句大歳時記 春』(角川書店)
『花と日本人』(和歌森太郎著 角川文庫)
『日本風俗史事典』(日本風俗史学会 弘文堂)
『植物と行事 その由来を推理する』(湯浅浩史著 朝日選書)
『ものと人間の文化史 梅Ⅱ』(有岡利幸著 法政大学出版)
『能楽ハンドブック 改定版』(戸井田道三監修 三省堂)
『浮世絵で読む 江戸の四季とならわし』(赤坂治績著 NHK 出版新書)
 
 

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