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関西空港 幻の計画を調べる②

 高度成長の過程において伊丹空港の代替となる関西新国際空港建設が必要であることは明らかでした。新空港建設については、既に昭和37年の国連・日本政府共同での近畿圏整備計画で言及され、その後さまざまな中央・地方自治体の文書でその必要性が言及がされています。
 そして昭和40年前後から、この関西新空港計画は候補地選定という具体的な段階へ移行していきます。

初期の候補地 - 淡路島建設案
 昭和41年、兵庫県は淡路島北部での空港建設案を発表します。この計画は淡路島北部の東浦、津名、北淡の三町(現淡路市)にまたがる丘陵地帯を切り開き、超音速旅客機対応の国際空港を整備するというものでした。
 公害問題との兼ね合いから、人家の近くに空港を計画することはできず、かつ大阪や神戸といった都心部からアクセスが容易な場所となると、この淡路島北部案は理想的な立地であったと推定されます。

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 当時、大阪市総合計画局の新空港建設に関する報告書によると、滑走路配置について3つの案がまとめられており、いずれも井桁型の滑走路配置で、4,000mの滑走路2本と3,500mの滑走路2本の合計4本の滑走路を持つ計画でした。下の画像は三案のうちのB案と呼ばれる計画図で、欧米でよくみられる滑走路の中心部にターミナルを置く形となります。また将来的な空港アクセス用の鉄道ルートも計画されていました。

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 先述の大阪市総合計画局の報告書には、立ち消えとなった候補地として数か所挙げられています。以下はその一例ですが、これら以外にも具体的な調査など行われず、ち消えとなった候補地は多く存在していたと考えられます。

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淡路島案の背景
 兵庫県が淡路島案を推進した背景には、淡路島経由ルートでの本四架橋優先着工を求めた側面もあります。当時はまだ本四架橋の調査段階であり、現在の三つの本四架橋ルートの決定は昭和44年前後のこととなります。淡路島経由のルートは淡路島・四国から対関西圏への流動を確保できることから、建設の必要性は誰もが認めるところではありましたが、明石海峡の架橋の難度が高く、実際に完成したのは児島・坂出の瀬戸大橋ルート完成から約10年後でした。仮に淡路島に国際空港が完成していれば、淡路島ルートでの本四架橋は他ルートに比べ優先的に行われ、実際よりも早い時期に完成していた可能性もあります。

 明石海峡での架橋の難度については当時から懸念されており、先述の大阪市の報告書によると空港開港後も10年程度は橋がない状態での空港運営となる、と予測されていました。その間の旅客輸送は、ホバークラフトが本命視されていたようです。高台の空港からどのような形で船着き場まで行くのかわかりませんが、ホバークラフト利用で神戸まで15分、大阪まで60分と試算されています。しかし、世界有数の混雑海域である大阪湾で大量かつ高速度の海上輸送が果たして可能だったのか、実際に淡路島国際空港が実現されていれば空港アクセスは大きな問題になっていたと考えられます。

 当時の若手衆議院議員で、関空建設に深い関わりをもった故塩川正十郎氏は著作「時代を拓く 関西国際新空港」において、「(昭和43年時点において)淡路独走といった状態であった。」と述べています。今となっては当時の空気感を窺い知ることはできませんが、この時期は、この淡路島国際空港案が最有力だったようです。

 次回はもう一つの有力案であった神戸沖案について書いてみたいと思います。

*2020年12月19日加筆しました。


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