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関西空港 幻の計画を調べる①

 関西空港は本当であれば神戸沖に建設されるはずだった・・このような話を聞いた記憶があります。もともと鉄道好きであった私は、どのように空港アクセス鉄道が敷かれ、どのようなダイヤが組まれていたかと、その妄想に心を躍らせました。あれからかなりの時間が経ち情報はネットに溢れ、なんでも探せるようになっていると思っていましたが、意外とこの手の話はないようです。誰も興味を持っていないから情報出てこないと言われればそこでおしまいですが、とはいえあれだけの巨大プロジェクトですから、調べたうえで記録として残すことは意味のないことではないように思います。当時の書籍や資料から、計画初期から関空建設までの推移をまとめ、幻となった計画についてゆっくりと備忘録の代わりに書いていきたいと思います。

関空建設前史 - なぜ関空が必要か?
 関空建設の歴史を振り返る前にまず、なぜ関西空港を建設する必要があったのか整理してみましょう。

限界だった大阪の空の玄関口
 まず伊丹空港の対応能力がほぼ限界に来ていたことが理由としてあります。伊丹空港は1939年に建設された大阪第二飛行場をそのルーツとし、戦後は占領軍に接収されますがその後返還、民間機発着枠の拡大を繰り返し、大阪の空の玄関としての地位を確立しました。滑走路の延長工事を行い、台頭するジェット機の時代にもなんとか対応しますが、周辺が住宅密集地域のため、滑走路増設など抜本的な拡張工事は不可能でした。1970年大阪万博に伴う旅客増にはつぎはぎ的な能力増強によって何とか乗り切りましたが、増加し続ける航空旅客への対応は中長期では不可能と想定されていました。
 大阪万博前後の時代は、国際線の利用者増加とともに国内線においても都市間移動における航空機利用が一般化した時代であり、昭和41年には275万人だった伊丹空港利用客数はわずか7年後の昭和48年には1,200万人まで増加しました。日本第二の経済都市大阪の国際空港としてはあまりに貧弱な設備は、新空港建設を動機付ける最大の要因でした。

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↑ 時代は少し違いますが、昭和55年時点での関西圏の需要予測です。平成13年までの予測ですが、実績と異なり右肩上がりが予測されています。
(概ね5年ごとの各空港利用者数を線で結んでいます。単年の利用者増減は反映されていませんのであしからず。)

周辺住民への配慮
 先ほど述べた通り伊丹空港は住宅地の中にある空港です。当然ながら航空機による騒音は大きな問題となります。伊丹空港へのジェット機就航開始以降、騒音問題が表面化し大阪万博前後の時期には近隣住民からの騒音訴訟が相次いで起こります。国も騒音対策を打ち出し、多額の騒音対策費を予算計上しています。1973年には伊丹市が"大阪国際空港撤去都市宣言"を採択、問題が大きくなるにつれて、発着枠の限定や夜間の飛行禁止など、様々な対策が取られるようになって行きました。当時の航空機の騒音、公害が大きくクローズアップされていた時代背景からすると当然の話ではありますが、航空会社や経済界の立場からも次第に伊丹空港は使いづらい空港になっていきます。
 1969年、超音速旅客機コンコルドが就航します。日本航空は早速導入を検討し、ボーイングも超音速旅客機の開発に着手するなど、世界中の航空会社が超音速の夢を見ることになります。一方で超音速旅客機の市街地への公害も問題視され、将来的に国際線の多くが超音速旅客機となった場合、伊丹空港の立地はそれに耐えられるものではなかったのです。

そして関空建設へ・・ 
 人々が国鉄の代わりに国内を飛行機で移動、海外にはこれまでとは比べ物にならない数の人が旅行やビジネスに出かけ、中には超音速旅客機で移動する人も・・。当時考えられていた”来るべき未来”に伊丹空港が対応できないことは明らかでした。
 伊丹空港の限界を打ち破るだけでなく、関西の将来のためにより良い国際空港を求める声が上がり、関西財界・自治体は新国際空港の建設へと突き進むこととなります。

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