資本論に挑戦してみたい その2
資本論を通読することは字面を追うだけなら「根性」で達成できるかもしれない。
しかし、今回の目的は資本論を私なりに「理解したい」ということ。
素人の読み方を嘲笑されてしまうかもしれないが、思考過程を含め恥を晒すことを承知の上で記していきたいと思う。
いきなり「資本論」を俎上にのせても敷衍も解説もできるわけがないので、まずは予備的考察として柄谷行人の「マルクスその可能性の中心」の二章を読んでみる。
読後、直感的にこの二章はマルクスの「可能性の中心」を越えて思想史の観点からも重要なことがしかも解りやすく書かれていると確信した。
それでは「資本論」の旅へ。
資本論は商品の謎を解くところから始まる。
単なる物質であるモノに何故価値があるのか、またはこの価値とは如何に生じるのか。
価値があるとは何がしかの貨幣と交換することができるということだ。
商品に内在する価値と貨幣の価値が同等である為に交換が可能になる。
または物々交換が行われるのは商品Aと商品Bが同等の価値を含んでいるからである。
貨幣と商品に内在する「同一性」などあるのだろうか。
商品Aと商品Bに内在する「同一性」などあるのだろうか。
労働価値説は何故か妙な説得力がある。
同じ労力をかけて生産されたモノには同等の価値がある。
したがって同等の労力を投下したモノには同じ貨幣価値がある。
しかし現実にそんなことがあるのだろうか。
まず疑問に思うのは同じ労働の量とはどのように計られるのか。
単純労働の場合、時給ということになるのか。つまり労働時間によって同一性が計算されるのか。能力も資質も異なる人間が同じ時間機械のように稼働すれば同じ労力を投下できるのか。
商品とされるモノも素材や目的によって異なるのに同一の価値を持つと言えるのは奇妙な話だ。
私たちは貨幣を元に様々な使用価値に同一性を見いだしているだけにすぎないようなのだ。
商品に限らず言語もそうなのだが、私たちが自明のこととして受け入れていることは受け入れていることそのものの起源を隠してしまう。
自明視しているものは出発点ではなく、何らかの効果を受けた結果なのである。
原因と結果の転倒こそが謎として解かれなければならない。
そのためには異なるのに商品の尺度となる貨幣なるものに疑いの目を向ける必要がある。
価値はランダムな体系から生じるのであって初発に価値(意味)が存在するのではない。
マルクスが商品形態から「資本論」を始めたことは意義があるのだ。
商品は生産過程を経ることで「商品」になるのだから生産過程の分析のあとに商品がくるべき。従って商品形態を最初に持ってくることに特別な意味合いはないとの論考もある。(廣松渉など)
しかし、価値形態から始めることが重要なのだ。
その3に続く