中上健次論(0-6)柄谷行人との邂逅

中上健次と柄谷行人との交流に就いてはきっかけも含めて様々な言及がある。


回顧には偶然を「神話」化する契機が含まれている。
特別な意味があったかのように思いたくなる。

ふたりを「偶然」にも引き合わせたのは遠藤周作である。『三田文学』の編集長に就任した遠藤は新しい書き手を探していた。
そこで「群像新人賞」の最終選考に残ったが受賞を逃した人たちの原稿から有望な新人を発掘して『三田文学』への掲載を依頼しようとしたらしい。
それが小説部門の中上健次と評論部門の柄谷行人だったのだ。
場所は当時、新宿紀伊国屋書店にあった『三田文学』の編集室だった。


この辺りの経緯は有名な話だが、これ以上の偶然の出会いもないだろう。因みにふたりとも『三田文学』への掲載は断ったようだ。
時は1968年であった。

ふたりは意気投合する。
中上健次にフォークナーを教えたのは柄谷行人であることは有名であり、その影響力は中上の「紀州サーガ」を読めば一目瞭然である。
そして中上が柄谷経由でホッファーの作品に出会ったことの重要性も忘れてはならない。
ホッファーの人生観は中上だけではなく、柄谷にも影響を与えている。
労働と知性を共存させる生き方の範例が実在していることの意味は重大である。
なんといっても中上は仕事をしたことがなかったのだから。

 兄の死をめぐって観念の化け物のようになっていた健次は、こうしたホッファーの文章を読んで憑き物が落ちたようになった。労働の経験を通じて、兄の死をしだいに客観的にとらえるようになっていったと思われる。

『エレクトラ』髙山文彦

ではホッファーとはどのような思考者だったのか。

 一九〇二年にニューヨークで生まれたホッファーは、七歳で失明した。十五歳で視力を回復したが、学校教育を受けぬまま肉体労働者となった。モンテーニュの『エセー』を読んで思想家として目覚めた彼は、沖仲仕などをしながら文章を書きはじめ、『大衆運動』によって日本でも多くの読者を得た。遊ぶように働く、とはホッファーの言葉だったが、健次はまるで自分の言葉のように人に語った。

『エレクトラ』髙山文彦

驚くのは良い意味での「傲岸不遜」さである。この頃から既に世界レベルの上から目線のふたりであった。

「文壇・論壇」界では有能かつ生意気であり続けたふたりはエピソードには事欠かない。
柄谷が座談相手に「バカヤロウ」と罵倒しそのまま文壇誌に掲載されたことも、中上が編集者の頭を瓶で殴りつけたことも現代では常軌を逸した行為であるが当時は「武勇伝」として人の口の端にのぼった。
実際には中上は窮地に陥ったようであるが。
個性的なふたりの友情が破綻せず続いたのも不思議と言えるだろう。友情関係は中上健次が夭折するまで継続した。

「仲良し」とは違う乾いた関係性はライバルでもあった。妥協した仕事をしたら切り捨てるくらいの緊張感のある気配がふたりの間には漂っていて、一介の愛読者にも届く熱量があった。
だからこそ「朋輩」だったのだろう。

若き日の世界を見据えた「大言壮語」は単なる大言壮語ではなく当時から具体的に世界が見えていた目的地だったのかもしれない。
再晩年、病床にあった中上健次は明らかに「ノーベル賞」を意識していた。
しかし夢は叶わず1992年8月12日午前7時58分死去。
享年46歳。
大江健三郎の「ノーベル文学賞」受賞が1994年である。物故者はノーベル賞の対象にはならない。