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新海誠『すずめの戸締まり』

言いたいことに行き着くかわからないが、
新海誠について書く。

初めて見たのが『君の名は。』で、実は全くノレなかった。
この時期にこんな「歴史修正」をして良いのか?

そもそも、入れ替わった後になぜそんな不都合もなく他人の人生を生きれるのか?
などなど。

次に『天気の子』を見た。
これは乗れたのだ。
直線的なボーイミーツガールもので。

僕と君の切実な思いに感動したし、
そこで初めて新海誠の描く東京の瞬間に見せる美しさにも共振できた。

そして先日、新作を見るにあたってアマプラで未見の『言の葉の庭』を見たのだ。
46分の中編なのですが、これに衝撃を受けた。
というか自分なりの新海誠の作家性を見出せ、一気に親近感が湧いたのだ。そして、これも自分なりの解釈であるが、なぜ『君の名は』が多くの人の心を掴みヒットしたのかもわかった気がした。

これは、男子高校生と歳の離れた女性との恋愛映画だった。
しかしロマンポルノのような禁断の恋みたいな展開はない。

梅雨時期に靴職人を目指す少年が、雨の日だけ学校サボって過ごす新宿御苑の東屋で出会う歳上の女性とのささやかでプラトニックな交流を描く。

食べ物の交換、そして本の贈与。
その中で名前も知らぬまま少年は歳上の女性に惹かれていく。
靴のデザインに行き詰まった少年は、彼女にモデルになってもらい足の型を取らせてもらう。

すごいと思ったのは、この靴がマクガフィンとして機能しつつも、
靴の完成・贈与のシーンを描かなかったことです。

2人の出会いを「点」でとどめ、「線」としての時間の経過を描かなかった。

つまり少年と彼女の関係はあの東屋の一時空でしかなく、2人の最もエモーショナルな瞬間は、彼女の団地の階段のあの一点だけ。

新海誠はその歴史を欠いた一点の重さ、思いこそを描きたかったのだと気付いたのです。

「歳の離れた2人」=「会うはずのなかった2人」
『言の葉の庭』と『君の名は。』は新海誠の瞬間に対する思いが、水や光の描写からテーマに至るまで一貫している。

『君の名は。』は歴史修正ではなく、反歴史だったのだと。
入れ替わりの整合性は、反時間だったのだと。(どうでもよい)

線としての時間・歴史という視点ではなく、「今ここ」のかけがえのなさをひたすら描いていたのだと。


『君の名は。』が多くの人の心に届いたのは、
あの隕石が震災の隠喩として機能し、震災後の日本人を慰撫したからではなく、
「名前も知らぬ人を好きになる」という瞬間的なときめきが、現代の日本の息苦しさから解放させてくれたからではないか。

多くの人が共有できる幸せのロールモデルが無くなってしまった現代で、唯一共感できるのが、一瞬の思いの愛おしさであったり想いだからこそ、『君の名は』は多くの人の心に響いたのだはないか。


『言の葉の庭』でいうと、
男子高校生と女性教師の恋愛は信じられなくても、
2人のプラトニックな、しかも時限的瞬間的な結び付きは信じられるということではないか。


そしてようやく新作の『すずめの戸締まり』。

本作が素晴らしいと思ったのも、誤解を恐れずに言えば
震災を宮崎駿的な歴史という観点から解放していたことだ。

近代化がもたらした環境問題。
ロシアのウクライナ侵攻でも自明となった世界の不安定さ。
宮崎駿は常に歴史を問い直す物語を作り続けている。
戦中(1941年)に生まれ、
戦争の記憶が濃密に残った時代に育ち、
68年をピークとする政治の季節も体感し、
高度成長・バブル経済の過程の政治・経済の矛盾を見続けてきた。

科学技術への魅了と、公害や原発問題への関心・怒りを同時に抱えてきた。
つまり、文明へのアンビバレントな想い。

今年81歳になる宮崎駿にとって、物語と歴史は不可分だ。


新海誠は1973年生まれ。
団塊ジュニアである。


『すずめの戸締まり』は東日本大震災を描いているけど、
原発事故のイメージは付加されておらず、
太古から続く「後ろ戸」を閉めることで日本列島の地震を抑えてきた「閉じ師」のお仕事の話に、
震災で母親を亡くしたヒロインの成長物語が合わさった話である。

宮崎駿が持つ文明へのアンビバレントな想いはない。

入場者特典の小冊子に載っている
企画書前文によると

災害については、アポカリプス(終末)後の映画である、という気分で作りたい。来るべき厄災を恐れるのではなく、厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼りついている、そういう世界である。


新海誠の水と光の反射で描く東京の瞬間的な美しさは、
時間の流れとは切り離された瞬間で、
かつ退屈な日常の細部に宿っている。


小冊子の中で新海誠は、
本作を日常から非日常へと旅し、再び日常に戻るという大枠を語っている。

地震列島の日本で太古から続く「閉じ師」としての今と、東日本大震災で母親を失った少女との瞬間的な出会い。
点と点で結ばれるというより、そのかけがえの無い日常の瞬間を繋ぎ止めていく感じに、
一目惚れというときめきをふりかけたような演出と言えば良いのだろうか?

『魔女の宅急便』のオマージュに満ちているけど、
ヒロインは一つの関係性には留まらず、
例えば『ハウルの動く城』のような擬似共同体も作らない。
猫を追うという目的の中で、草太と「閉じ師」のミッションをこなしていく。
それはある意味「閉じ師」としてのルーティンである。
特別な何かでは無い。

特別なのは草太との出会いであり、
この出会いを『言の葉の庭』の2人の延長として考えるとすごく合点がいく。

日本の近代化が抱える原発問題を背景に押しやろうとするくらい停滞する経済。
震災時に生まれた子が中学生になろうとし、薄れていく第三者としての震災の記憶。

歴史と記憶から断絶されていく僕らがリアリティを感じられるのが「今ここ」の「好き」という感情。
そしてもう一つ大切なことが「閉じ師」としての「ミッション」であり「ルーティン」。それを「仕事」と読み解くか「日常」と読み解くかは人それぞれだろう。


その中でヒロインが草太と東京の二者択一で、あっさりマイケル・サンデルの「トロッコ問題」を乗り越えてしまう、正にそのあっけなさに感動してしまったのです。

ヒロインは草太が好きでありつつ東京も救う。だってそれはミッションだから。

「トロッコ問題」って机上の問題提起で、
現実は大小様々なトロッコ問題の選択を既にし続けている。
ヒロインの真っ直ぐな行動を見ていると、
「トロッコ問題」って、文明の免罪符のための偽りの問題提起にも思えてくる。

『すずめの戸締まり』は
歴史から疎外されてしまった僕たちのために生まれた
今という瞬間を見続けることで生まれるファンタジーであり、
「閉じ師」の所作同様に
「今」から「歴史」を聴きなおす可能性だと思った。

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