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ポトフと陰翳礼讃

Silent Shadows

私は、13年前、パリに一年滞在していたあるとき、日本にいる友人が、スイスで彼女の友人夫妻が自宅兼アーティスト・イン・レジデンスとして暮らしている古邸で、今度世界中から20人くらいのアーティストを招き、面白そうな企画をやるので、行ってみないかと誘われた。私は二つ返事で参加したい旨を伝えた。

そして、当日。パリからTGVに乗り、ジュネーヴでローカル線に乗り換え、ヌーシャテル湖畔のエスタヴァイエ=ル=ラックという駅に着く。私の他、何人かのアーティストたちをドイツ人で映像作家の夫が車で出迎えてくれる。

邸は、小さな古城という趣で、200年以上前に建てられ、代々貴族が住み、直近は寄宿制の学校として使われていたという。三階建てで、10数部屋あったろうか。私も、一部屋あてがわれた。

企画のタイトルは、「Silent Shadows」。コンセプトは以下の通り。――アーティストたちは、この広い邸で生活を共にし、作品を制作する。ただし、滞在中は一切言葉を発しない。そして、電気も使わない。食事は、朝食は各自、昼夜は当番制で料理を担当する。ただし、調理中も食事中ももちろん無言で、電気も使わない。翌日から企画はスタートする。最終日に、制作した作品の展示を邸内で行い、内覧会&オープニング・パーティを開くが、それもすべて無言で電気なし。

企画を主催する夫妻は、妻が日本人、夫がドイツ人だが、以前長期日本滞在の経験があるせいかどうかわからないが、今回の企画は、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に着想を得たという。

翌日から、奇妙な共同生活がはじまる。誰かに何かを伝えたいときは、身振り手振り。日暮とともに蝋燭が灯され、夜中トイレにいく時も、電気のスイッチがあるのにわざわざ蝋燭を灯し、用を足す。調理も何人かの共同作業だが、これまた言葉が使えないので、身振り手振り。でも、意外とどうにかなるものだ。

早朝に、庭にしつらえてあるパオで、座禅会がある。坐りたい人は、坐る。滞在中、食事の当番以外、すべて行動は自由。自室で制作するもあり、休息するもあり、買い物に出るもあり。私は、邸が湖のほとりにあることから、よく湖畔の遊歩道を散歩・散策した。

ヌーシャテル湖

ヌーシャテル湖は、レマン湖につづき、スイスで2番目に大きい湖。すぐ隣には、かのジャン=ジャック・ルソーが晩年、社会から疎まれ、遁世せざるを得なかったサン=ピエール島を擁したビール湖がある。

「しかし魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなある感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。それは生の快楽のうちにみいだされるような不完全な、みじめな、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福なのであって、魂のいっさいの空虚を埋めつくして、もはや満たすべきなにものをも感じさせないのである。こうした状態こそわたしがサン・ピエール島において、あるいは水のまにまにただよわせておく舟のなかに身をよこたえて、あるいは波立ちさわぐ湖の岸べにすわって、またはほかの美しい川のほとりや砂礫の上をさらさらと流れる細流のかたわらで、孤独の夢想にふけりながら、しばしば経験した状態なのである。」(『孤独な散歩者の夢想』、第五の散歩)

ヌーシャテル湖の水面も、同じく、いたって穏やかで、さざ波がやはり瞑想を誘う。私も、ルソーを気取るわけではないが、しばしばほとりに佇み、しばしの夢想に耽ったりした。

ポトフ?

夕食は、予算の関係もあるのか、調理の技量もあるのか、シンプルなメニューが多かった。パスタにサラダにチーズにデザート。それはそれで、毎日の当番が丹精込めて作ってくれた、ありがたい食事であったが、いかんせんフランスの肉食に体が慣れていた私には、日ごとに物足りなくなり、1週間たったあたりで、私が自腹で調達するので、肉を買い、料理させて欲しいと主催者に願い出た。

許しが出たので、私は颯爽と自転車を飛ばし、近くの町の肉屋で、煮込み用の牛肉の塊5キロを買い求め、そのほかの材料も揃えて、ポトフを作ることにした。フランス式の「本格的な(?)」ポトフである。いかんせん塊の大きさが大きさのため、思い通り煮込まれてくれるか賭けであったが、結果は思い通りに仕上がり、レストランに出してもおかしくないほどの出来になった。

そして夕食の時間。皆の反応はいかん。一人また一人と、肉片を口に頬張った瞬間、えも言われぬ喜びを満面に浮かべ、唸り、たぶん「グレート」とか「デリシャス」とかの思いを、身振り手振りで伝えようとしてくれる。

SilentでShadowsなのに、ポトフ?と、にわかに疑念もよぎるが、谷崎は牛肉好きであったと聞くし、あながちコンセプトからずれてもいないだろうと、自らを納得させた。

特異な宴の沈黙と陰影

さて、最終日の展示と内覧会&オープニング・パーティである。私自身は、作品として、この滞在期間中、SilentとShadowsをめぐって体験したことを、日本語とフランス語の詩文にし、A6サイズの白いカードにしたためたものを、20枚ほど、食堂脇の掲示板に忍ばせ展示した。

内覧会&パーティは、日暮れとともに始まった。招待客もまた、各自燭台を手渡され、その頼りなげな炎だけを頼りに、会場=邸を観て回る。作品は、どこに潜んでいるかわからない。闇からかろうじて姿を現すものもある。もちろん、全員無言。パーティとしては異様な静けさの中、床や階段が軋む音、暖炉の薪が爆ぜる音、グラスがかすかに鳴る音などが、増幅される。

食堂の大きい細長いテーブルの上には、日本人の陶芸作家が庭で野焼きした、黒々とした大小の器が整然と並び、その中に、私が作った様々な料理(わざと音のたつ食材などを選んだ)を盛り込んだ。全体は、蝋燭の揺らぐ火影にたゆたっている。

通常の、白々とした蛍光灯に照らされたホワイトキューブの中で、賑やかにおしゃべりに興じるパーティに慣れた体と心には、この特異な宴の沈黙と陰影が、ひときわ鮮やかに沁みる。

ヨーロッパの只中での「陰翳礼讃」。

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