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思春期を振り返る(「蹴りたい背中」を読んで)


綿矢りさといえば「蹴りたい背中」
でも私は先に「しょうがの味は熱い」を読んだ
それは1月のこと

26歳の自分を主人公に重ねた
つらくなった 読んでつらくなる本が好きだ
読み終わったときに 心にぽっかり穴が開くような本が好き
自分の求める幸せが何なのか ふんわり考え込んでしまった

依存したくない 奈世(主人公)を反面教師にしよう
自立した女性になろう
恋や愛を、生きる軸にしてはいけない
将来の自分と約束した

もっともっと綿矢りさの言葉を読みたくなった
そして手に取ったのが「蹴りたい背中」

2月の初めのこと
すぐにページをめくり始めたけど 全然進まなくて
やがてインテリアと化した(実際私の家にはインテリア化した本がたくさんある。積読ではない、あれはもうインテリアだ)

登場人物に自分を重ねがちな私には
向いていない本だった(向いてないとその時は思った)

5月8日 早く終わった研修の会場近くの公園のベンチで 今しかないと思って読み切ることに
風が強くて寒い日だった ページをめくる指先がかじかんでいた

主人公は 痛い、恥ずかしい、思春期のこども
自分も思春期は 痛い、恥ずかしいこどもだった

4か月前くらいに 中学生の時に書いていたブログを発掘した
当時Amebaでせこせこ書き溜めた、KHAOSで破廉恥な肥溜め日記

痛い、恥ずかしい、中学生の日記

でも12年経って読むそれは なかなかにかわいくておもしろい

中学生ってとても特殊で、多感で、脆くて、
当時は 半径5m程度の世界がすべてだった

教室でのできごと、ともだちとの会話
先生の視線、家族の温度、インターネットという混沌との戯れ

それだけで構成される

ほしいものは手に入らないことが当たり前だから、悶々とすることはない

半径5mですべて完結する という毎日
でも退屈とは言わない だってそれが すべてだったから

当時のブログを読んで思うのは
中学生の時点でもう 人格はほぼ完全に形成されているということ

わたしはいま あの頃と同じ目をして、同じ思想で 同じ言葉を紡ぐ

何も変わっていないことに安心して 同時に かなしくもなる

蹴りたい背中に出てくる絹代
いるいる 自分の味方だとおもっていたのに
いつのまにか遠く離れていく なのにふらっとまた
戻ってくるそれを憎めない自分
うれしいのにかなしい 離れていかないでよ
やがて自分から拒絶する 拒んだのは私だから と言いたくて必死に

(本の絹代は、私の周りにいた絹代よりよっぽどマシだったけど)

主人公が陸上部なの、ちょっと解釈違いだな
表紙の絵もあまりに陽キャ
ああいうのは決まって文化部ではないの
少なくとも運動でストレス発散できる人は
あんなに痛く恥ずかしくはならないでしょって 経験者は語る ははは

ハツは 型にはめられたくないんだよね
だから私なんかが共感したらきっとハツは嫌がるよね

ハツは かわいそうとか思われたくないよね
選ばれないんじゃない、選ばれることを望んでいないんだよね
拒絶しているのは ハツのほうなんだよね

わかるよ(わかられたくないよね)、私も、ハツだから

にな川への感情 にな川との関係性が
変わるのはいつか 二人をもう少し追ってほしい

高校1年生で二人は出会ったけど
高校3年生だったら きっとハツはにな川の背中を蹴りたくならなかった

ハツは うまく生きれるようになるのかな

自分は今もあの頃と変わっていない 根底は変わっていない
でも 今 うまく生きているから
ハツもきっと

あーあ またこうやって自分を登場人物に重ねて
気持ちよくなっている ダメな癖 やめないけど

次は、「傲慢と善良」を読む たのしみ

5月8日 夜ご飯はホットサンドを作って食べた

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