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豊かな田畑を支えるもの

「水聴庵」から蓼科山のほうに向かって歩いて坂を上ると、一面に田畑が広がっていて、晴れている日は南アルプスから釜無連山、北アルプスや御嶽山、霧ヶ峰に車山、そして蓼科山から八ヶ岳と、まさに360度のパノラマが広がっている。

そんな畑の一角を貸していただくことができたので、毎日のようにここを訪ねるようになった。
畑からは6月に田植えを終えたばかりの水田を望むことができ、長い冬を越えた後の山と新緑を眺めていると、なんともいえない豊かな気持ちになり、時間を忘れていつまでも見ていられるのだった。

しかし、はるか昔からこの豊かな田畑があったかというと、必ずしもそうではないらしい。

笹原集落の歴史をひも解くと、1656年までさかのぼる(1645年という説もある)。それ以前、笹原を含む八ヶ岳の裾野に広がる原野は、諏訪神社に供える鹿の狩場で、開拓が禁じられていた(もっともっとさかのぼると、大和朝廷の軍馬を育てる場でもあったという)。

戦国時代を経て、鹿狩りも行われなくなったこの地は、近隣の南大塩の代官、小平佐五右衛門が見立て、笹原新田として開発されることとなった。草分けは南大塩をはじめ伊那、佐久、また甲州などからやってきた9姓11人とのことである。

現在では集落中に水の音が響く笹原だが、当時は飲み水を確保するのがやっとで、田のための水を得るには大変な苦労があったらしい。前出の小平佐五右衛門が、何キロも離れた場所から川を越える大掛かりな水路を作ろうとしたが断念した、なんていう記録もあるとか。

そんな歴史を知ると、現在、聴くことができる水の流れも、ずっしりと重く、そして尊いものに思えてくる。
笹原と水の関係は、引き続き調べていきたいテーマである。

(隆一)


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