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敗金主義者の原罪

 相変わらずマネーが寄り付かない寒い冬である。これはきっと生まれながらにマネーを蔑ろにした罪を背負っているからではないか、と一瞬考えたが馬鹿らしくなって怒りが湧いてきた。そもそも、私は原罪というまやかしに懐疑的であるのだ。生まれながらにして罪を背負う、そんなのあるわけないし、それこそ差別を生み出す根源ではないか?排他的な価値観から生み出された統一幻想こそ罪を、言われなき差別を生み出すと思うのだ。差別は争いの元であるからして、世の中に何一ついいことは生み出さない。もっとも、これらの建前はもっとビジネス的な裏があるので、真面目に生きる紳士淑女をたぶらかさんとする思惑が垣間見れるのだ。あなた方はこれだけの罪を生まれながらに持っているんだから、それをあの方がお救いくださるのだ、だからあの方を崇めようではないか!と、取り巻きの連中が神輿を担ぐための掛け声として採用したプロパガンダなのだ。当然、あの方にも紳士淑女にも罪はない。悪いのは己の利益のために偽りを流布した連中なのである。しかし、時間の経過がそれを神格化して、「真実」を「事実」に変えていき、それが「常識」として生まれながらに刷り込まれてしまうのだからなんとも罪深いと言えるのではないだろうか?親の親の親の先祖の、その考えが脈々と受け継がれるのが善悪に関わらず生物の、遺伝子に操られた物の宿命、そう、もしあるとするならばそれこそが原罪なのかもしれない。
 
 ここで、唐突に「幸せ」とは何か考えてみよう。皆さんは幸せをどう考えているだろうか?そもそも、幸せとは何か?を考えたことがあっただろうか?幸せを考えるということは幸せの定義を考えることなのだが、幸せの定義とはなんだろうか?私はここで提案したい。個人にとっての幸せの定義は

「個人の欲を満たした時に得る感情」
 

これが「個人の幸せ」であると考えている。定義はシンプルで当然であり、最もシンプルに考えると結論としてこうなるのではないだろうか?食欲でも性欲でも独占欲でも、個人が欲する何かが満たされた時に、人は「幸せ」と感じるのではないだろうか?だからこそ、個人、一人一人に「幸せ」の度合いが違うわけで同じ幸せを分かち合うのが難しいのだと思う。ある人は1で満たされても、ある人は10でも満たされない。己の欲に応じて変わってしまうものではないだろうか?
ある人はご飯も食べられない、住む家もない、だから、たとえあばら屋でゴミ屋敷で、誰かの食べかけのご飯でも、満たされて満足するかもしれない。ある人は裕福な家に生まれて、欲しいものは全て手に入るのに、それをベースとしてそれ以上に何かを欲するとするならば、やはり「幸せ」にはならないのかもしれない。それはその人の生まれ持った性格によるものかもしれないし、生まれた環境によるかもしれない、しかし、どの人も欲が満たされたら「幸せ」を感じるのである。そして、逆に欲が満たされなければ「不幸」に感じるということだ。
 この不幸に感じることが、人と人との関係におけるあらゆる軋轢を生み出すと考えている。そして、その環境が世代を超えて、血の繋がりを持って、脈々と受け継がれてしまう問題を次回取り上げてみたいと思う。不幸と、その連鎖についてである。もちろん、それは政治経済に直結しているし、砂糖の島の話にも直結しているし、「愛」にも直結している。私の全ての話には相互作用があるものであるが、この敗金主義者の話も同様である。なぜなら、それが「思想」というものだからで、ある種「理論」とも言えるからだが、それはまあおいおい説明していけたらと考えている。
 
 ちなみに、ある本が出版されてから「農耕は人類の不幸の始まり」などと流布されているが、敗金主義者である私は敗金主義とは関係なくそのことを上記の観点から否定している。人は腹一杯食いたいという欲があるし、それを家族や子供達にも受け継いで欲しいと欲するものだ。それを満たす農耕という手段を手にしたのであればそれは「幸せ」である以外はないのだ。そして、だからこそ今現在でもそれは行われているのである。そうでなくては人は続けないのだ。
 多分、その本の筆者やフォロワーは「共生」という価値観に触れていないのだろうと考える。人にとっても植物にとってもメリットがあるから共に繁栄できたのであって主従関係ではないのだ。それが理解できればこんなことに時間を取られなくても住むと思うけど、まあ、それは個人の勝手であって多分原罪を流布した連中のようにそれで欲を満たして幸せなのかもしれないから、他人がどうこういうのも野暮だろうか?
 今回はここまで。

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