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第42回 不和の始まり

 時代は令和へと移った。
 世間には何となく、「これからいい時代が到来するのではないか」という気分が広まっていた。
 しかし、昨日できなかったことが、今日できるようになるわけでもなく、世の中は実質何も変わってはいなかった。
 私を取り巻く環境もまた、変わってはおらず、むしろ悪化の一途を辿っていた。

 拳法の道場である。

 結婚してから、元々住んでいた場所より離れたところに引っ越して、道場への距離が遠くなった。かつては徒歩十五分ほどで行けた道場に、電車で一時間かけて行かないといけなくなっていたのである。

「私は拳法と結婚したわけじゃない」

 新婚生活の中で、お嫁様からそのように言われたこともある。
 週に二回ある練習日の内、土曜日の練習は特に不満を溜めさせていたようだ。何せ、世間一般では貴重な休日の一日であり、どこかへ出かけたりするには格好の曜日である。それが、ほとんど何も出来ない状態になるのだから、それは不満に感じても仕方がないだろう。
 私は、少しずつバランスを調整していった。なるべく休みの日も入れ、出来るだけ家庭のことを優先するようにしたのである。
 しかし、それは同時に、道場への対応力が弱まることも意味していた。

 道場のことだけではない。
 拳法の東京都全体を統括する事務局に、私は所属しており、大きな行事がある度に、その準備や対応に追われて、会社から帰ってきたら、パソコンを使っての事務作業に取りかかるということをしていた。
 プライベートと、半分仕事のような拳法関係の対応とのせめぎ合い。

 さらには、9月に予定しているディズニーシーでの結婚式へ向けての準備もあり、この2019年の春から夏にかけての時期は、とにかく慌ただしくしていた。

 当然、執筆にかけるような余裕もなく、私は次第にフラストレーションを溜めていっていた。
 X社からはいまだに返事が来ない。原稿を出してから何ヶ月も経つというのに、音沙汰無しだ。だけど、急かしても心証が悪いだろうと思い、私は大きく構えて待つことにした。
 知っている作家達は第一線で活躍しているというのに、自分は何も出来ていない。そのことが実に歯がゆかった。

 そんな中で、道場では、7月にある東京都大会に向けて、子供達の特訓をしていた。
 出場予定は、中学生二人一組と、小学生二人一組。大会では、二人で組んで演武を行い、競い合う。その演武の指導を、黒帯の大人達で分担して行っていた。
 私は主に小学生の組の面倒を見ていた。そっちは、私の裁量で進めることが出来て、それほどストレスなく指導することが出来た。
 問題は、中学生の組である。
 私と同世代、三十代の黒帯達が主に面倒を見ていたのであるが、どうも、かなり負荷がかかっていたようで、目に見えないところで不平不満を溜めていたようだ。
 そのことに私は気が付いていなかった。

 ある日、練習帰りに、駅へ向かって歩きながら、私は指導に当たっていた同世代の黒帯女性A子さんの意見を聞いていた。

「あの子達は、ちゃんと相手に攻撃を当てるとか、そういうことを学んでいない。だから、変な動きになってしまっていると思う」

 そのことを聞いた私は、大いに反省した。
 これまでの指導において、もちろん出来る限り実戦的なことは教えつつも、本人達のレベルを考慮して無理ないようにと優しくコーチングしてきたところはある。そのことが、今になって問題点として現れてきたのだろう、と思った。
 だから、私は、自戒を込めて、こう言った。

「やはり、普段から、もっと相手に当てたりとか、そういうことを教えていかないといけないね」

 すると、突然、黒帯女性A子さんは目を怒らせて、私に向かって大声で文句を言ってきた。

「今さらそんなことを言っても、どうしようもないじゃないですか!」

 私はびっくりした。
 A子さんは、人当たりが良く、ジョークも言ったりする気さくな性格をしていた。同世代の中では一番仲良くしているつもりだった。
 それが、敵対心にも近い目つきで自分のことを睨みながら、怒りをぶつけてきたのだ。

「待って、僕は反省の意味で言ったのであって、今からどうにかしようとは思っていないよ。大会には、これから出来るだけのことをして臨むしかない」

 過ぎてしまったことは、もう手の出しようがない。今はやれることを最大限やるのみ。問題は、ここで浮き彫りになった課題を捉えて、この大会の先にどう子供達を指導していくか、そのことを今から考えるべきだと思っていた。
 けれども、彼女は、目の前の大会でどう成績を出させるのか、そのことで頭が一杯になっている様子だった。

 過去を反省し未来を見据えている自分と、目前に迫った大会のことを考えているA子さん。二人とも正しく、二人とも間違っていた。そして、問題に対する視点が食い違っているため、話し合っても平行線を辿る一方だった。
 とりあえず居酒屋に入り、三十分ほど議論し合ったところで、お互いモヤモヤを抱えつつも、その日は一旦終了となった。
 しかし、そこで残ったわだかまりが、後日爆発することとなったのである。

 それは大会まであと一週間、という日のことだった。

 突如、出場する中学生B君の親から、目を疑うような連絡が入ってきたのだ。

「申し訳ありません、息子が、ちょうど大会の日に、学校の課外授業があるのを忘れていて、今お知らせを受け取って知ったところなのです。だから、大会には出られないです」

 マジかよ、と思った。
 大会には二人一組で出場する。これはB君が欠場して済むという話ではない。一緒に組む中学生C君に迷惑がかかる話である。これまで頑張って練習してきたのは何だったのか、ということになる。
 B君に対して怒りがこみ上げてきた。中学生にもなって、学校の大事なスケジュールを把握していないとは、どういうことだ。それに、親も親である。ちゃんと子供の学校のスケジュールを管理してくれないと困る。

 急ぎ、私は同世代の黒帯仲間で作っているグループLINEに、このトラブルを伝えることにした。
 みんな、衝撃を受けていた。この土壇場のタイミングで、困った、となっていた。

 私は、胃が痛くなるような思いを抱えながら、トラブルの原因であるB君に何もしないわけにはいかない、と思い、みんなに向かってこう言った。

「今度の道場で、B君にはちゃんとスケジュール管理するよう指導しておきます」

 そこで、いきなり、A子さんが噛みついてきた。

「B君に責任を押しつけないでください! これはちゃんと管理していなかった大人の責任です」

 は⁉ と私は頭の中が真っ白になるほどの怒りを覚えた。
 大人の責任? なぜ? 自分はプライベートを犠牲にして、この道場のために出来る限りのことをしてきている。隙間時間を全て埋めて、やれることはやっている。それでも、カバーしきれないところは出てくる。少なくとも、自分自身のスケジュールの管理は、自分の責任で行うべきではないか。じゃあ、何か、B君に「学校からもらったお知らせを道場に持ってきなさい。スケジュール管理するから」とでも言えばよかった、とでもいうのか? そんな無茶な!

 私はとうとうこれまで積もってきた思いが爆発した。

「大人の責任って、無茶言わんでください。どうやってB君の学校のスケジュールを把握しろって言うんですか。そんなのエスパーでもなければ無理です!」

 そこからは言い合いになった。
 一方で、A子さん以外の同世代の仲間達はダンマリを決め込んでいた。LINEの既読数から見て、他のメンバーも見ているはずなのに、誰も何も意見を言ってこない。
 私は失望した。
 うちの拳法で、毎回の練習時にみんなで唱えている教えの中に、「互いに親しみ合い援け(たすけ)合い」というものがある。どいつもこいつも実践できていないじゃないか、と嘆かわしく思った。

 結局、B君はスケジュールを何とか調整することで、大会に出られることとなった。
 しかし、この一件がきっかけで、私は拳法に対する情熱が急速に冷めていくこととなった。

 道場に通うのも時間的、距離的に厳しくなっていた私は、これを機に、指導者としての地位から退くことを決意したのであった。

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