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著作権は幻想にすぎない『哲学者マクルーハン 知の抗争史としてのメディア論』

今日の読書メモはメディア論について。

サピエンス全史と合わせて、とても興味深い書籍だったので、気になったところを今回もメモしておきます。

1つは、個々のメディア(媒体)にはコンテンツに関係なくそのメディア特有の性質があり、同じ内容でもメディアが違えば違ったものになる。何が違うといえば、体験が違う。五感の関与の仕方が違う、ということである。

メディアにはそれぞれ特性があり、「ケネディの暗殺」という「外的出来事」は同じであっても、受け取るメディアによって五感の関与度が違えば、「心的出来事」が異なり、「現実」も変わってくる。メディアの内容に囚われると、この体験の違いが見落とされてしまう。

メディアの違いにより、体験が違うことについて。信頼できるメディアかどうかによって、情報を受け取る姿勢も変わってくるし、伝え方によっても受け取り方が変わってきそう。

アホっぽい現代アート作品も、めちゃくちゃカタイ文章で伝えられたら、なんか深そうに感じちゃうだろうし、逆もまたしかりだよね。

マクルーハンは「著作権」の概念は、印刷文化がつくった一時的な幻想にすぎない、と言っていた。グーテンベルク以前、著作権概念はなかった。印刷文化が過去のものになりつつある今日、「著作権」と「オリジナリティ」の再定義が必要である。

まさに今、AIの台頭で著作権が問題になってきてますよね。人間自体が遺伝子による模倣の拡張(模倣の変化)みたいな感じで進化してきたし、あらゆるものは、他者からの影響+解釈のふり幅(突然変異)みたいな感じで変わってきたので、オリジナリティっていうのは、もはや原子みたいなもんなのかもしれないですね。

著作権っていうものに、もしかしたら一部の人類は価値を感じなくなってくるのかもしれない。そんなことを想像してみました。

書道家の石川九楊は、著書『縦に書け!』のなかでこう言っている。「日本人とは、文化的には、日本国籍を有するという定義では十分ではありません。日本人を日々再生しているのは、日本語であり、日本語に蓄積した文体(スタイル)です。日本人とは、日本語の別名にほかならないのです」

言葉によってコミュニティが生まれ、コミュニティによって個人が形成される感じがしたので、とても腑に落ちました。使う言葉によって、環境の認識の仕方が変わるはずで、言葉はそのまま社会の見え方を表すものな気がしますね。

車輪は足の拡張であり、本は目の拡張であり、衣服は皮膚の拡張であり、電気は中枢神経の拡張である。

外にある物を内包して拡張してきた、という概念がとてもおもしろいんですよね。パソコンは自分の脳の拡張といえる。すでに自分よりも自分のことを覚えているし、電子機器は身体の一部。

文明は文字の上に築かれた。

まさに!

自分自身が拡張していく、という概念はとても腑に落ちます。

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