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シドニーで出会った老夫婦が語る「自分自身の愛し方」について

 オーストラリアで九ヶ月のワーキングホリデーをした最後の月、私は一緒に暮らしていたシェアメイトと、オーストラリア半周の旅に出る。ゴールドコーストからシドニーに着いた時、私はすっかり体調を崩していた。
 長引く風邪の影響で出歩けず、男女共用のバッパーの二段ベッドの下段で、荒い呼吸を抱えて寝込む。二月のシドニーの日差しは強く、窓の外に目を向けるだけでめまいがした。


 夕方になって体調が少し回復し、オペラハウスへ向かって歩き出す。せっかくの旅。そもそも海外なんてほとんど行ったことがない。テレビでしか見たことがなかった風景を、肌で感じたい。
 港に着き、大きな船が停まっているのを見て、両手を広げて叫びたいほどの感情が迫る。ハーバーブリッジとオペラハウスが同時に見えた。世界の巨大さを知り、もっと多くの世界を知りたいという衝動が走り、私は大きく息を吸う。

 身体に無理をかけないように、オペラハウス近くの海岸沿いの防波堤に座る。海に目を向け、立てた膝の上に顎を乗せて、周りに目を向ける。手をつないだ老夫婦が目線を交わしながら、こちらに向かって歩いてくる。
 白髪のおじいさんと、その右に寄り添うおばあさん。

 会話している時の二人の笑顔が、鮮やかに咲く花のようだ。私は二人から目を離せなくなり、近くに来るまで目で追っていた。
 二人は私に気づいて笑顔を見せる。

「すごく仲がいいですね!そういうご夫婦、うらやましいです」
 顔つきや表情がよく似ている二人。ごく自然に一緒にいるのが分かる。

「あなたにはそういう人はいないの?」
「うーん。いつも要求するばかりになっちゃうかも。もっと相手をちゃんと愛せるといいんですが。どうやったら人を愛せるか、いい方法があったら知りたいです」

 自分の憧れる家族の姿が目の前に現れて、言葉が逸る。何か話さないと、すぐに行ってしまいそうだ。

「人の愛し方の前に、自分の愛し方を知り、自分を愛すといいよ」

 おじいさんはそう言い、片手で眼鏡の位置を直しながらおばあさんを見る。

「要求っていうのは、自分で自分を愛せてないからしたくなるんだよ。自分を愛せないことを、誰かに求めているんだ」
「自分を…。そうかもしれません。自分に自信がないから、誰かにそばにいて欲しいと思うし、話を聞いてもらいたいと思う。自分を認めてもらいたいと思うし、誰かに必要とされたいと思う」
「それを全部、自分に与えてごらん」
「恋を思い出すといいわよ!」

 おばあさんがおじいさんにウインクして見せる。

「恋に落ちた時、あなたはどうするかしら?」
「うーん、相手のことをもっと知りたいと思う」
「それから?」
「何をしたら相手が喜ぶかを考えて、喜びそうなことをする」
「いいわね、あとは?」
「相手の気持ちを知ろうとして、私の気持ちも知ってもらおうとする」
「うん、そうね。それから?」
「なるべくそばにいられたらいいけど、どうしよう、だんだん要求が大きくなってく気がする」
「ふふふ。そう考えるのは、要求したくないからよね?」
「はい」
「相手を自分だと考えてみて。あなたにとって、自分を愛するっていうのは、
 『自分のことをもっと知って』
 『自分が何を一番喜ぶかを考えて、自分が喜ぶことをする』
 『自分の中に自分に対する愛情があふれているのを知る』
 『いつも自分のそばにいる』
 ことよ」


「キミはどんな人だい?目の前にキミという恋人がいるつもりで言ってみて」

 二人の視線を受けて、私は空に目を泳がせる。

「私は、そうですね。いつも自分の都合ばっかり考えていて、誰かに助けを求めてばっかり。この旅でも…」
「ちょっと待って!あなたは自分の大切な恋人にそんな言葉をかけるの?人前でけなされたら、誰だって傷つくじゃない。生まれた時からあなたのそばにいて、これからもずっと一緒にいてくれる人なのよ。誰よりも大事にしてあげて」

 胸と指先がしびれるように震えて、私は右手を額に当てる。

「さあ、言ってみて。あなたの恋人はどんな人かしら」

 口を開くのに、声がうまく出ない。

「私は、一生懸命生きてて、どうしたら人が喜んでくれるだろうといつも考えてる」
「そうね、あとは?」
「人を励ますのが上手で、夢を持つ人をちゃんと応援できる人で、旅が好きで、好奇心が旺盛で」
「いい子じゃないか、他には?」
「文章を書くのが好きで、お菓子作りが上手で、子どもみたいに無邪気で」
「素敵ね、それで、あなたが一番好きなところはどこなの?」

 私は乱れる息を整えるように深呼吸する。両目から涙があふれてくるのをごまかしたくて、目をつぶって腕でこする。

「どうしたら人が喜ぶだろうって、いつも一生懸命なところ」
「そうよね。一番傷つくのはどんな時?」
「人に喜んでもらえなかった時」
「うん。じゃあ、そういう時、何をしてあげようか」
「話を聞いてあげたい。思っていることを全部」
「うん、そのあとは?」
「それだけ。全部聞いたら、彼女はちゃんと自分で歩けるから。どこが辛かったのか、どうだったらよかったのか。そういうのを全部聞いてあげたい」
「彼女は、あなたの愛情を感じるかしら?」
「わかんない。でも、分かってもらえなくてもいい。必要な時には、絶対そばにいるからって言ってあげたい。そこだけ分かってて欲しい。絶対いなくならないからって」

 それから、おじいさんとおばあさんは、代わる代わる私を抱きしめてくれて、私はおじいさんのグレーのTシャツに涙のシミを作ったことを謝った。

「いつも、自分の声をちゃんと聴いてあげて。あなたの大切な恋人は、ただ、そばにいて話を聴いてもらいたがっているだけなの」

 おばあさんの声が、いつまでも心に残る。ずいぶん長い間、自分のダメなところをリストにして記録していて、そのリストは何か失敗する度に長く長く伸びていた。

 最初から、そんなリストはいらなかった。「私」を強くするのは、愛する私からの揺るぎない称賛の言葉だけだ。

 空の色が紺色から黒に変わっていく。海へ向かう港に目を向ける。私はそこから動けないまま、ハーバーブリッジに顔を向け、声を上げて泣く。

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