桜花絢爛 「ストーリー1」

「ST 1」
 東京、品川。
 品川駅から国道15号線を下り、ビルの合間の狭い路地を曲がると、建物の間を真っすぐと伸びる緩やかな傾斜の細い路地が現れる。その坂を上がっていくにつれて、都会の喧騒は薄れ、やがて高台にある庭園の脇を通る並木道に差し掛かる。庭園の桜は有名で、モダンに舗装された桜並木も美しく、春になると両手から爛漫する桜を一目見に多くの人が訪れる。並木道の先は、その場所が、空に高層ビルが覗く都会であることを一瞬忘れてしまうような静かな住宅地になっている。狭い路地に住宅が密集し、庶民的な家も中にはあるものの、区画の大きな一戸建てや、低層のマンションも目立つ、古くからの高級住宅地になっている。
 その一帯を古い地名から「…」と呼ぶ。
 今宵も、御殿山は静かな夜を迎えていた。
 一帯は、車通りも少なく、夜は底に沈んでしまうような静けさである。どの家も主室から暖かな光が漏れていて、暮れた通りで耳を澄ませば、その灯りの元で笑う家族の笑い声が聞こえてくるかも知れない。
 とても「素敵な所」だった。
 そこに涼の家がある。まずは四方を囲む高い和風の塀と、仏閣の入り口の様などっしりとした木製の門が目に留まる。塀は、背伸びして首を伸ばして覗いてみないと、一端がどこまであるのか一見ではわからない。分厚い門はやや苔むしている。その重厚な佇まいと、立派な表札にある、たった一文字の苗字を見れば、住んでいる人がただ物ではない事がすぐにわかる。建物は、地上4階、地下2階、煉瓦造りの巨大な洋館で、それが高台にどっしりと腰を据える姿は、まさに城という言葉がよく似合う。門の前に立って建物を見ると、背景に見える品川の高層ビルが五重塔の様にみえてこなくもない。
 塀の中には、松も、竹も、梅も、桜も、池も、灯篭も、橋も、芝生も、豪邸の庭に似合うものはすべて揃っていた。
ただ、それらすべてに不思議な気配がある。例えば、庭の木々は丁寧に整えられているが、伸びている気配がない。勿論、現実に草木が伸びていないことはないが、ある日を境に静止画に変わってしまった様な世界がそこにある。
 門はしばらく開いた様子がない。
 建物の窓が灯っても、玄関には明かりがない。
 庭の池は、鯉を狙いに来たカラスが中で休むほど乾いている。
 銀色の毛をした猫が入り口の灯篭の上で丸くなって寝ていた。
 あの写真にあった桜はつぼみを付け始めていた。
 そこで止まっていた。
 暗い海を漂う一隻の船のようでもある。
 その船の上方に一か所だけ明かりが灯っている。
 そこが涼の部屋である。おそらく日本の一般的な「子供部屋」の2倍の広さがある。涼の長身でも持て余す程大きなベッドがあり、羽毛布団も必要以上に厚く大きく、傍らにある勉強机は紫檀で出来ていた。机がそうなら椅子も立派で、ファーストクラスの様な肘掛けと、本革を張った高い背もたれが重厚感に溢れている。
 涼はその椅子とベッドを同じ高さに繋いで、上半身は椅子の上に寝て、下半身をベットに乗せた、いつもの恰好で羽毛布団をかけて寝ていた。
涼はまだ寝ていた。
 目が覚めて時計の針を見た。
 「8時」だった。
 涼は思わず飛び起きた。その拍子で椅子の足のタイヤが回り、危うく椅子とベッドの間に落ちそうになりながらも、ひじ掛けにつかまって体勢を保ち、どうにか椅子に座り直した。
 心臓が大きく鼓動している。寝坊をした時と似ている、鳩尾の辺りがひやっとするような、あの嫌な感覚である。
 涼は、胸を抑えそれが治まるのを待った。
 廊下の柱時計が時を刻む音が聞こえる。
 やがて鼓動は治まった。
 涼は背もたれに深く体を倒しベッドに足を乗せ、机にあった煙草を一本取って火をつけた。
 煙は蛍光灯の光を包むように広がった。逃げ場のない煙たちは部屋の隅へ向かい、やがて壁にぶつかって消えた。その部屋の四隅はヤニで随分と黄色くなっている。
 成人した涼は二枚目がよりはっきりとした顔になったが、いわゆる童顔という顔立ちで年より幼く見られる事がある。その肌の質感からか、色の白さからか、「…」は涼の顔の事を「むいたゆで卵みたいな顔」だと言っていた。
 携帯を開くと、彩香から電話とメールが、夕方からついさっきまでにかけて何回も交互に来ていた。
 「家着いた?」
 着信1件
「寝ちゃった?」
 着信2件目
「なんで電話出ないの?起きたらメールちょうだい」
 着信3件目
「まだ寝てるの?」
 着信4件目
「起きたら電話して」
 着信5件目
「どこにいんの?」
 涼は「帰って寝てた。今起きたよ」とメールを返して、煙草を消し、また一本取って火を点けた。そして、黒いスウェットパジャマの首元から、時計のゼンマイ鍵と指輪が通してあるネックレスを引っ張りだした。
 涼は、近所のコンビニに行くにも、街へ出かけるにも、すべて、その黒い上下スウェットパジャマ姿で、それは、大人から見ればただの「だらしない」に終わるところ、長身に長い手足のむいたゆで卵がそれをすると、若者的に見れば「サマ」になってしまう。それに加えて、やたらと目立つ銀色の大きなアンティークロレックスの時計と、年季の入ったエルメスの革のスニーカーが涼のトレードマークになっていて、それら二つも「若者的なサマ」に追加点を加えている。
 が、上下スウェットで街をうろつく流行りも一昔前のもので、上下ジャージの流行りすらも終えた今となっては、やや「時代遅れ」な印象を受けなくもない。
 涼は、煙草を吸いながら柱時計のゼンマイを回しに部屋を出た。廊下は天井も高く、部屋の光がドアから漏れた程度では廊下の先も見えぬほど広い。そして、その時を止めたように静かだった。まるで、深い洞窟の中のようだ。
 その闇の先に、涼の背丈程もある木製の黒い大きな時計がひっそりと立っている。この洋館が建った時から、その場所で時を刻んでいて、涼は小さい頃に鍵を任されて以来、家にいる時は欠かさずにゼンマイを回して来た。
時計の頭には笹竜胆の家紋が彫られている。
 時計の前に来た所で、彩香から携帯に電話が来た。涼はくわえ煙草で電話に出た。
 「…」
幼げな可愛らしい声がそう言った。
 涼は煙草を口から外した。
 「うん。おはよう」
誠一に似た優しそうな声がそう言った。
 「どこにいんの?」
 「家だよ」
 「何してんの?」
 「今、ゼンマイ回してるとこ」
 「誰といんの?」
 涼は笑った。「一人だよ。家だから」
「わかんないじゃん。女連れ込んでるかもしれないし」
「そんなことないよ」涼は口の右端を上げて笑った。電話の向こうの彩香が、頬を膨らまし、口を尖らせているのが想像できる。
「お前も回してみるか?とか言ってない?」
「そんなことないって」そう言いながら、涼は蓋を開けてゼンマイを回し始めた。「この時計触ったことあるの彩香だけだよ」
「本当?」
「本当だよ」
「…。学校どうだった?」
「ちょうだるかったよ。ただでさえだるいのに、なんで休みまで学校に行かなくちゃいけないんだって感じだよ」涼は口を尖らせた。
「涼ちゃんが行かなかったからいけないんだよ」彩香の口も尖った。「私はあれだけ行けって言ってたのに」
「そうだけどさ…」
「ちゃんと行かないとだめだよ」
「うん。…でも、前も何日かさぼったけど大丈夫だったけどね」
「だめだよ。そんな事言って、また上がれなかったらどうするの」
「うん…」涼は声を落とした。
 涼は、志麻子の「…」に負けて「行って座ってさえいれば」進級出来る高校に17歳になる時に入った。最初はほとんど行かなかった。20歳が見えて来た頃に、やっと少しは通う気になった。通う気…と言うより、遊んでいた仲間達が働き始め、一人家にいても仕方ないからという理由が大きい。
 涼はゼンマイを回し終え、またネックレスを首にかけ服の中に大事にしまった。
 柱時計のすぐ側に、子供用の木製の踏み台がある。涼はそこに腰をかけた。小さい頃は、この階段を使ってゼンマイを回したものだった。
 「昨日はどこまで行ったの?」
 涼は昨日の夜も彩香の家にいた。彩香は翌日が仕事だったので、涼は一人で夜の街へ繰り出した。
そこから、彩香が寝るまでの間も、二人はずっとメールでやりとりをしていた。
 「そうそう。あのあと、パックンも来たから大黒まで走って来たよ」
 「パックン久しぶりだね。お祭りみたいになってた?」
 「いや、全然。やっぱり取り締まりが厳しくなっちゃったみたいで…。車好きみたいな人はいたけど、普通の高級車がちょっと多いかなってぐらいだったよ。やっぱりジョー君だったから出来たことみたいだね。レースとかだって」
 「そっか。お祭りみたいだったら行きたかったな」
 「ね…。」
 「あの伝説の8日間が懐かしいね」
 「やめてよ」涼ははにかんだ。「彩香は何してたの?」
 「さっき帰って来て、ハンバーグ沢山作って冷凍してた」
 「大量生産?」そう言って涼は笑った。
 「そう。大量生産。今日はひき肉2キロ」彩香も同じように笑った。
 涼は煙草の灰が落ちそうになっているのに気づいて部屋に戻ろうとしたが、間に合わず、廊下にポロっと落とした。指ですくったが、絨毯の起毛に入ってしまって取れなかった。
 「そうだ。お父さんの車あったよ。お父さん達、帰って来てるんじゃないの?」
 彩香は会社の帰り道、原付バイクで涼の家の前を通った。通り沿いにあるガレージの扉が珍しく開いたままで、誠一の乗る銀色のベンツが見えた。
 「わかんない。いるのかな…」隣接する部屋でもなければ、生活音が聞こえる家ではない。
 涼は部屋に戻って煙草を消したが、またすぐに一本取って火をつけた。
 窓を開けるとレースのカーテンが風で大きくなびいた。
 「寒いな、今日も」涼はベッドに腰をかけ、長い足を組んで体を縮こませたが、やはり寒いので、窓を半分ぐらい閉めた。
 「もう4月なのにね」彩香も電話の向こうで同様に部屋の窓を開けて呟いた。品川の高層ビルが冷たい空気の中で煌々と輝いている。
 「公会堂の桜が咲くね」
 「やだ、あそこは…。公園でお花見しようよ」
 涼の家からすぐ近く、御殿山の高台に当たる所に、四方を高いフェンスに囲まれた都心なりのこぢんまりとした公園がある。その狭い園内に、ブランコに滑り台、うんていに砂場と一通りの遊具を揃え、奥には桜が沢山植わった小さな庭園もある。恐らく長い歴史があろうだろう木々の中には樹齢の長いとても太い幹をしたものもあった。公園のフェンスから覗く高台の景色は、聳え立つ都会の建物が渓谷を思わせ、遠くに見える大きな品川駅や、真下を通る無数の線路が急流となるなら、走り去る電車や、高速で過ぎ行く新幹線の音が物悲しさを語る音に変わってくる。その公園は、しっとりと静まった風情の脇に、どこか寂しい印象を受ける場所でもあった。
 「ご飯は?」彩香が言った。「うち来て食べるでしょ?食べると思って一個だけ冷凍してないよ」
 「食べる。やった。ハンバーグか」
 「ブロッコリーも買ってきたよ。早く来てね」
 「分かった。用意したら行く」
 涼は電話を切り、煙草を消して部屋を出た。
 廊下を進む足音は雪を踏みしめるように絨毯の起毛に沈んでいく。
 階段は、大正ロマン溢れる雰囲気がとても美しく、手すりの木も太く立派で、踊り場の窓を飾るステンドグラスも芸術品の様な趣がある。ただ、「雰囲気が美しい」と感じられるのは、それらすべてが暖かい橙の照明に照らされていた頃の話で、階段を降りるスリッパの音が暗い吹き抜けに消えていく今となっては、その美しい螺旋は洞窟の地下深くに降りるための作業的なものでしかない。
 一階のリビングに行くと、誠一がソファに座っていた。ネクタイを外し、ワイシャツの袖をまくった状態で、テレビを見ていた。見ていた…。ただ眺めていたと言う様子だった。目は単純にその光を映していたが、その目が複雑に映像を理解しているようには見えなかった。
 リビングには輸入家具が揃い豪華にまとめられているが、そのせいで余計に生活感がなく、人が住んでいる気配がない。手彫りの彫刻が施された食卓に乗るキャンドルも新品のまま。ソファに重なる大きな革製のクッションもしばらく使われた様子がない。まるで舞台のセットの様で、そこでの演劇すら長い間行われていない。あの暖かな暖炉も死んだように静かだった。側に薪が積まれていることもなく、中の灰も綺麗に掃除された状態のまま。最後に火がつけられたのはいつのことだったか。
 誠一は相変わらず、目鼻立ちの整った綺麗な顔をしていたが、髪の生え際が白くとても疲れている様子で、痩せた背筋は、まっすぐ伸びていても頼りない印象を受ける。
 誠一の目の前のガラステーブルには、深い小金色をしたウイスキーの瓶と、ロックグラスがぽつんと置いてあった。氷は溶けて酒と分離し、小金色は鈍り、結露して溜まった水がコップの底に溜まっていて、そこにテレビの青白い光が映っていた。
 誠一はゆっくりと涼の方を見た。
 「お母さん、帰って来てるよ」
 摘まれた新緑の葉が揺らぎながら落ちる様な、いつもの優しい声だった。
 涼は黙って誠一の背を通り冷蔵庫の方へ行った。その背中に、誠一はもう一度声をかけた。
 「会いたくないか」
 「会いたくない訳じゃないよ」
 葉は床に落ちた。
 涼は冷蔵庫から麦茶を出し、コップに入れて一杯いっきに飲み干した。
 台所には洒落た食器や、特殊な調理器具が揃っているが、家政婦がごく稀に使い慣れた万能包丁を使う程度で、壁のナイフラックも完全に飾りと化して、水回りも新品のようにピカピカに輝いていた。
 昔は、志麻子と志穂が調理台に二人並んでハンバーグのタネをこねたりしていた。涼はキッチンの対面からその様子を覗き込んで「まだか」と訪ねた。「もうちょっと待ってて」と志穂は優しく答えた。「お父さん。氷ある?」と志麻子が聞く。ソファに座る誠一は「ああ、頼む」と答える。「涼、お父さんに氷持って行って」と志摩子が言う。涼は渡されたアイスペールを持って誠一の所に行き、グラスにちょうど収まる大きさのまん丸いロックアイスをグラスに入れた。
 「ありがとう」
 涼はしばらくの間、無駄に光るシンクを見つめていた。
 「一応伝えておくけど、今度また、赤坂の方の病院に変わるからね」誠一が言った。
 涼は黙っていた。
 志麻子が入退院を繰り返す様になって10年が経つ。涼は、小学生の頃に一度行ったきり、それっきり志麻子の病室に顔を出した事はない。
 志麻子は持病の喘息が、ある時をきっかけに急激に悪化して、今は家の階段を2階に上がるのがやっとだと言うぐらいに重症化していた。トイレに立つにも手すりにつかまりながら、苦しそうに喉の音を立てて息を荒くする。
 「会いたがってたよ。学校はどうしたかって心配もしてた」
 涼は何も言わずシンクにコップを置いて、風呂場へ行った。
 その涼の背を黙って見送ると、誠一はグラスを口に運んだ。角張った小さな氷が音を立て、グラスの底についていた冷たい水が垂れて、グレーのスラックスに落ちた。
 シミをぬぐいながら、誠一は思わず深いため息をついた。
 涼は脱いだスウェットをランドリーボックスに投げ、軽くシャワーを浴びると、クリーニングされて戻っているパンツと黒いスウェットに着替えた。
部屋に戻ろうと、涼が再びリビングを通った時には、もう誠一の姿はなかった。そこには、さっきまで人がいたような温もりもない。ただ、ガラステーブルに、結露してついた水が、染みのようになって残っていた。
 涼が自分の部屋に向かい階段を上がっていると、吹き抜けの先から志摩子の苦しそうな息使いが聞こえてきた。それは弦楽器のように低く長く響き、獣の唸り声の様だと言っても相違はない。涼は足を止めて戻ろうかと迷ったが、そのまま進んだ。
 4階の廊下には橙色の明かりが灯っていて、そこに志麻子がいた。枯れ葉のように背を丸め、手すりにしがみつくように立っている。落ちくぼんだ目に、やせ細った手足、綺麗だった髪も白髪が多く薄くなり見る影もない。質の良い黒いカーディガンに包まれる体も、こぢんまりとして可愛らしいと言う印象はなく、枯れ木に黒いビニールを被せたような…。あの頃の気品と可愛らしさはなく、か弱さだけが息をしてそこにいるような姿だった。
 「涼。ご飯作れなくてごめんね」
 声もひどくかすれていた。
 志麻子はカーディガンの襟をつかみ、胸元を抑えるように苦しそうに息をしていた。今にも泣きだしそうな様子だと言っても良い。細くなった気道を通る乾いた息が、痛みを擦る様な音を出していた。
 涼は志麻子と目を合わせなかった。
 「大丈夫。別に無理しなくていいよ」涼はそう言って志麻子の前を通り過ぎ、自分の部屋の中に入った。
 「そう…。涼は昔から何でも自分で出来ちゃう子だからね。いつもお母さん助かるわ」志麻子はそういって無理に笑うと、涼の背を追って来たが、ドアの前で止まり、そこから入っては来なかった。
 涼は黙って、財布と携帯をポケットにしまった。
 「学校はどう?」志摩子が聞いた。
 「多分上がれる」
 涼は車の鍵を探した。机の上にあったので、それもポケットに入れた。
 「彩香ちゃんの所に行くの?」
 「そうだよ」
 涼は志麻子の前を通って廊下に出た。
 「明日、起きて、もし元気だったら。お母さん。ご飯作れると思うから」
 「だから、別に無理して作らなくていいって」
 「そう…」志麻子は俯いた。
 涼は志麻子を置いて、廊下の先にあるドレッサールームに行った。
そこは、まるで美容室の一角のような、白を基調としたおしゃれな空間で、おとぎ話のお姫様が使うような鏡台や、ちょっとした洋服屋が開けそうな程のウォークインクローゼットがある。ここで、いつも志穂が鏡台の前に座って髪を乾かしていた。その時、涼は鏡台に肘をかけたり、側の壁にもたれたりしながら、今日起きた事、楽しかった事を志穂に話した。志穂は鏡越しにニコニコとその話を聞いて、時々涼の方を振り返り、口の両端を上げるあの大きな笑顔で楽しそうに笑った。
 涼が、鏡台の引き出しからドライヤーを出して髪を乾かしていると、志麻子が喉をならし、壁にもたれながらよろよろと部屋の中に入って来た。
 おそらく自分に用があってとは思ったが、涼は背を向けたまま、一度、鏡越しにちらっと志麻子を見ただけで手を止めなかった。
 志麻子は一歩、二歩、ゆっくりと近づいて、涼の肩を軽くたたいた。
 「いつも彩香ちゃんにお世話になってるから、美味しいものでもご馳走してあげて」
 ドライヤーを止めず鏡越しに見ると、志麻子の震える手にお札が握られていた。その手は手羽先の様に細くなっていた。
 「別にいいよ」涼は視線を鏡に戻した。
 「いいから、とっておいて」志麻子はそのお金を涼のポケットに入れた。「彩香ちゃん。お仕事頑張ってる?」
 「うん。もう社員でやってるよ」
 「そう。偉いわねえ。彩香ちゃんは」志麻子はそう言った後、苦しそうにむせた。涼はその様子を、横目で一度見ただけだった。
 志麻子は、立っているのが辛くなって鏡台に手を置いた。そこで呼吸が整うのを待った。その時、空いていた鏡台の引き出しの中に目が止まった。ブラシがあった。
 志麻子はブラシを手に取ると、赤子を抱くように胸の中にしまいこみ、愛おしそうに撫で始めた。
 涼は志麻子がブラシを手に持っている事を分かっていながら、そこにドライヤーをしまって引き出しをわざと閉めた。
 涼は部屋を出た。
 その後、涼は、廊下の先や、階段の途中にも響いて来る志麻子の荒い呼吸を背に聞いて、幼稚なことをしたなと少しは後悔する。
 少しはする。少しはするけど…。でも、むしゃくしゃする。
 涼はそのまま玄関へ行った。
 玄関の棚の上には、額に入った家族写真と、表彰状がずらりと並んでいる。一番目立つのは、涼が3歳から始めたカートで獲った金色のトロフィーだった。涼は小さい内から頭角を現し、9歳から本格的なレース用マシンに乗り換え、国内外合わせ様々なレースで、最年少記録を合わせた見事な優勝を繰り返した。当時は、新聞や、テレビのニュースにまで取り上げられる程だった。
 その横に涼のピアノの発表会の写真もあった。本来は、観客に向かってお辞儀をした後、真っ直ぐと立った所を撮影されるはずだったが、涼はそこで堂々とカメラに向かってピースをしてしまっている。
涼は玄関の縁に腰をかけたまま、しばらく、ぼーっと棚の写真を眺めた。
家族写真は休みごとに行った旅行の写真が主だった。アメリカのグランドキャニオンから、パリの凱旋門まで。日焼けした顔で頭に花の輪を乗せて映っているものがあるかと思いきや、荒い岩肌に囲まれるチベットの秘境と言ったような場所で撮られた変わったものもあった。共通して言えるのはやはり、どれもみんな笑顔でとても楽しそうだと言う事。ちなみに、海外旅行は夫婦二人の趣味だったが、チベットの秘境は志摩子が反対し、誠一一人で行くことになった。
 そんな家族写真も、ある時を境にぱったりと止まっている。
 カートもあの日以来、一度もアクセルを踏んでいない。
 涼は、いつものエルメスの革のスニーカーを履いた。直し直し履いて、もう10年は履いている。年季が入って、とても良い味を出していた。
 立ち上がろうとした時に、今日もそこに、つい視線が落ちた。棺の様に広い玄関の片隅に誰かの忘れ物のようになったローファーがある。それは志穂が履いていたものだった。あの頃から変わらず綺麗なまま。色褪せず、ずっとそこにある。
 埃をかぶらないあたり、誰かが定期的にはたいているのだろうかと涼は思う。でも、見る限り、微動だにせず、そこにずっと張り付いたままである気がする。
 涼はしばらくそれを見つめた。棚にしまおうか…と思う事もある。ただ、捨てようか…と思った事だけはない。誠一や、志麻子は、これを見てどんな気持ちになっているのだろうとも思う。でも、聞いてみた事はないし、聞いてみようとも思わない。
 やがて涼は外に出た。
 ガレージの中、誠一のベンツの隣に、黒のセルシオが止まっている。日本の高級セダンである。型式が古く、15年以上は前に発売された型だったが、光るほど磨き上げられているので、ダイヤモンドの様な輝きを放っていた。それでも、さすがに、「セルシオ」という名前にやや時代遅れな印象を受けるのは否めないが、この「品川ナンバー8888」のセルシオは「横浜」で非常に有名である。その理由の一つに、まずは圧倒的な「走り」がある。
 涼は車に乗り込むと、都市を走る高級車の面構えから、田舎道を駆け抜けるスポーツカーの様な低く大きなエンジン音を唸らせた。
 バゴオオオオン!
 まずは一発。涼は思い切りアクセルを踏みつけるようにエンジンをかき鳴らした。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 見た目にはわからないが、本来ならスポーツカーに施すような改造が各所にされている。
 涼は車を走らせ、松の生える庭園をゆっくり進んで行き、路地に出た所でギアをニュートラルに入れ、車のセンターコンソールのボタンを押して、彩香に電話をかけた。ポケットに入っている携帯と車とが繋がっているので、携帯を手に持たずに会話が出来る。
 車のスピーカーから彩香の声が聞こえた。
 「どうしたの?どっか行くの?」
 「うん。ちょっと煙草買ってから行く」
 「どこの女の所?」
 涼は噴き出して笑った。「違うよ。すぐ行くから。ちょっと走りたい気分なんだ」
 「…。わかった。気を付けてね。あんまり飛ばしちゃだめだよ」
 「わかってる」
 涼は家の前の狭い路地を抜け、桜並木まではゆっくりと進んだ。途中、極端な急勾配、車一台がやっと通れる様なカーブでは、犬を散歩する人が通り過ぎるまで停車して待った。
 ゴゴゴゴゴゴゴ。
 マグマが流れ出る様に黒塗りのセダンがゆっくりと坂を下って行く。
 まさにそんな気持ちの人を乗せて…。
 やがて坂を下り切って大通りに出ると、涼はアクセルを全開に開けた。
 ゴウゥゥゥゥゥゥン!!
 その巨大なエンジン音は静まり帰った御殿山に響き渡る。
 志麻子は、その音を聞いて、何度胸を痛めたか。
 誠一は、何度この音の解釈を探したか。
 彩香も、窓からその音を聞いていた。
 遠く、まるで野犬の遠吠えのようなこの音を。
 ゴウゥゥゥゥゥゥゥン!
 涼は猛スピードのまま、山手通りと、15号がぶつかる大きな交差点へと飛び込んで行った。それは普通なら、確実に曲がり切れずにスピンするような速度であった。
 ゴウン!キュルルルルルルルル!
 涼は2トン近い大きな車体をドリフトさせて、ほとんどスピードを殺さずに交差点を曲がって行った。車は三日月の様な弧を描き、太いタイヤがアスファルトに擦れる物凄い音を立てながら、行く先へ吸い込まれる様に曲がって行った。
 毎夜走り回って体得した技だと言うことも出来るが、スポーツカーでもない大きなセダンを手の中で回す軽石のごとく走らせる技は、涼の体に染みついている勘とでも言うか、車の重心の傾きや、タイヤの摩擦具合、路面を掴む感触など、それらを瞬時正確に掴み取る天性に備わった素質から成せる技であった。また、もともと左利きの両利きであるので、クラッチの噛まし具合も絶妙な位置に調節することが出来る。
 涼は、何かに当てつける様にアクセルを踏む。それを振り切りたい思いからハンドルを切る。向かう先はどこでもいい。それを追い越そうと更に速度を速め駆け抜けていく。
 それでも一向にやりきれない。
 「それ」に追いつく気配がない。
 やがて、車は山手通りにある緩い下り坂の右急カーブに差し掛かった。そこだけ一車線になり、地下に下がって線路の下をくぐっていく形をした所である。涼はギアを一つ落とし、後輪を滑らせると、車体を進行方向に向けてほぼ横向きにさせた状態のままタイヤを滑らせて曲がって行った。車は弧を描く様にカーブに沿って綺麗に下りながら曲がって行き、線路の下をくぐった。その先は、逆に登りの左急カーブとなっているのだが、そこで涼は船の帆を返すように車体の向きを変えると、また絶妙なカウンターを切りながら、今度は逆の方向へ綺麗に曲がって行った。
 まさに華麗な技であった。
 でも、現実がいつもこう上手く走るともない。
 やり切れない思いが募る。
 そして、今日も同じ夜が始まる。

こんなちんちくりんな文章ですが、職業「作家」が夢です。 よろしければサポートしてやってください。