桜花絢爛 「エピソード4 御殿山」


「EP 4 御殿山」
 加奈子は元夫が経営するホテルで自殺を図った。それは、彩香が5年生になってすぐの事だった。
 加奈子が救急車で運ばれたという連絡を持って、彩香の叔父が涼の家にやってきた。彩香は、すぐその車に乗り込み病院に向かった。
 一命は取り留めたものの、加奈子は病室のベッドに横たわり、彩香達に背を向け、窓の外を眺めたまま黙っていた。その頃になると、加奈子は薬の量も増え過ぎて廃人の様になり、手足は痩せ細り、あの美しかった顔も痩せこけて見る影もない。もう死んでいるのと同じ様な状態だった
 加奈子がそうなる前から、彩香はすでに、形上は近くの叔父の家に預けられた事になっていた。叔父は、元々、父親の会社の仕事を請け負う小さな鉄工所を営んでいたのだが、それはとっくに倒産して工場だけが残っている状態だった。現在は定職にもついていなく、加奈子の口座に振り込まれる高額な養育費に頼り切る毎日だった。
 その叔父が声をかけても、加奈子は窓の方を向いたまま。
 彩香は声をかけようとは思わなかった。何も反応がないのが分かっていたということもあるが、加奈子がついに最後の手段に出たのだと思った。結局、自分がしていたことはすべて無駄だった。病状が回復すればいつかは…と、心のどこかではまだ一縷の希望を抱いていたが、その糸も切れた。この人は、面倒を見る私のことなど、やはりこれっぽっちも思っていない。
私のしていた事、私の思っていた気持ち。それが加奈子の代わりに死んだ。
ならば、せめて、最後に…。
 窓の外を見る加奈子の視線の先には、あの「品川一大きなラブホテル」があった。
 彩香は歩いてそのホテルへ向かった。
 彩香がそこに着いた時、ちょうどホテルの入り口に黒塗りの車が到着した。そこから降りて来た偉そうな男。昔に比べて、さらにぶっくりとお腹も出て、腫れた赤い顔をしていたが、紛れもなく、あの父親だった。
  「お父さん!」
  彩香の呼ぶ声に男は一瞬目を向けたが、すぐまた前を向いて歩き出した。
  「…社長」一緒に車から降りて来た部下らしき人間が彩香を差した。
  「さあ。あんなの知らない」男はそう言って首を横に振った。
  「お父さん。お母さん自殺しようとしたんだよ。どうして分かってあげないの?」彩香は叫んだ。
  男は足を止めて彩香の方を向いた。
 「加奈子は生きてるのか?」
  彩香は目に涙を溜めた。
 「生きてるよ。今も、ずっとお父さんのこと見てる」
  男はため息をついた。
 「なんだ。死ねばよかったのに」
 男はそう言ってホテルの中へ入っていった。車もすぐに走り去り、そこには彩香だけが残された。
 彩香はしばらくその場に立ち尽くした。
 今の言葉の解釈が進まなかった。それを飲み込んでしまったら、自分の存在すら否定されたことになってしまう。
 その非情な刃物を胸に抱えたまま彩香は振り返った。
 どこに帰ろう。
 彩香は袖をぐいぐいと引き、その袖で口を覆った。
 やがて足が勝手に歩き出した。彩香はホテルに背を向けて、御殿山に向かって歩いた。
 大通り沿いを歩いていると、その交通量で舞い上がる排気ガスが気になった。喉の奥に刺さる様だった。ただでさえ気持ちが高ぶっているので発作が起きない様、落ち着こう、落ち着こうと自分に言い聞かせながら歩いた。
 御殿山へ続く桜並木は皮肉にも満開だった。その上、今日は気候も良く、休日であったので人が多かった。人々は坂上の駐車場に車を止めて、そこから坂をゆっくりと下りながら桜を眺めて歩いていた。
 暖かい風が吹き、散った花びらが舞い上がる。坂を下る賑やかな笑顔達。彩香はそんな笑顔達の反対方向へと、袖で口を覆いながら黙々と上がって行った。
 やがて高台の公園に着いた。公園の桜も満開だった。その下で、幾人かの子供達が楽しそうに遊んでいた。傍らには、それを見守る両親の姿も見えた。
 彩香はその様子を公園の入り口からしばらく見つめていた。
 やがて彩香は歩き出し公園を過ぎた。袖で口を覆ったまま何も考えずにただひたすら真っ直ぐ歩いた。そうして、坂を下り15号線に出た時、自転車の後ろに子供を乗せた母親が目の前を通り過ぎた。見渡すと、信号待ちや、コンビニの前、信号を待つ車の中まで、至る所にそれが見えた。彩香はその間を抜けてひたすら真っ直ぐ歩いた。
 やがて埋立の工場地帯まで来たところで見覚えのある看板に出会った。それは彩香の祖父が営んでいた工場の一つだった。体育館程の大きさで、煙草の灰の様な色をした四角い建物だった。
 周りの工場は忙しない作業音を響かせ、大型のトラックが止まり、フォークリフトがひっきりなしり動いているというのに、その工場だけ閑散とシャッターが閉まっている。表の駐車場にも、動かなくなって放置されているであろう所々が錆びた軽トラックが一台止まっているだけだった。
 彩香は辺りを見渡し、勝手口からその工場に入った。
 中はとても静かだった。コンサートホールの舞台と椅子をすべて運び出した後の様な静けさ。建物の中をすべてスプーンでくりぬいた様に何もなかった。それでも、見渡せばいくつかは物が転がっていた。必要なものがすべて運び出され、いらないものだけが残された状態だった。
 いくつかある曇り窓から光が差していた。油の染みた黒い床が暗がりの中で鈍い光を映していた。
 彩香は、その中央で立ち止まった。よく広い宇宙の中にたった一人投げ出されたような気持ちとは言うが、それはこんな気持ちだろうと彩香は思った。太陽の方を向いていない地球の中央に一人で立っている様な感覚か、又は永遠に陽を向かない月の裏にまで辿りついたという感じか。何にしても今の自分を置いておくにちょうど良い場所だった。
 彩香はその場にしゃがみ、落ちていた5センチ程の鉄片を拾った。
 温かくもなく、冷たくもない。何でもないものだった。
 その先の尖った方を手首に当ててみた。
 これをすっと引けば、こんな悲しい人生に終わりを告げることが出来る。加奈子はこんな思いで飛び降りたのか、これよりも辛かったのか…。
そんな事が、想像の範囲であることが辛い。
 彩香はその場でうずくまった。
 どれだけの時間そうしていたか分からない。
 すると、いきなり勝手口が開く音がして、彩香は驚いて振り返った。
 それは涼だった。
 「いたいた。やっぱり」
 涼はそう言って嬉しそうに微笑んだ。
 「どうしてわかったの?」
 「なんかいる気がした」
 涼はそう言って工場の中を見渡した。「公園にもどこにもいなかったからさ。多分、公園から真っ直ぐずーっと歩いたのかなあと思った。俺も昔、お母さんと喧嘩して家出した時、公園からずっと歩いてここに来た事あるんだよ。俺達、一緒だね」
 そう言って涼が微笑んでも、彩香は表情を変えなかった。
 「あの時はお父さんが迎えに来たんだ」涼は首を傾げた。「でも、なんでお父さんはここって分かったんだろう…」やがてその首を戻し笑った。「父親だから子供の気持ちが分かるのかな」
 彩香は黙っていた。
 「もうご飯だよ。帰ろ?」
 そう言って涼が歩み寄ると、彩香は首を横に振りながら後ずさった。いつも果実の様な彩りを見せる表情には色がなくなっていた。鉄の様に冷たい顔だった。
 「どうしたの?」涼は足を止めた。彩香が涼に向かって、そんな顔色を見せるのは初めてのことだった。
 彩香は手を袖の中にしまって、小さい頃あの公園で最初志穂の事をそうして見た時の様に伺い見る様な目で涼を見た。
 「どうしたのじゃないよ」
 涼は表情を曇らせた。
 「彩香、大丈夫だよ」
 「大丈夫じゃないよ」彩香は突然、泣き出した。「だって死ねって言われたんだもん」
 涼は眉に皺を寄せた。「誰がそんなこと」
 「お父さんだよ。お父さんに死ねって言われたことある?私のお父さんは探しになんか来てくれないよ」
 涼は黙った。
 「どうせ私も涼ちゃんに捨てられるんだよ。涼ちゃんの家族にだって嫌われる。その内、みんな私のこと嫌いになるんだよ。誰も私のことなんか好きになってくれない」
 「そんなことないよ」
 「あるよ。そんなことある。お父さんだってそう言ってた。でも、死ねって言った。お母さんのこと。あんなに好きだって言ってたくせに死ねって言ったんだよ」
 彩香は大粒の涙を流しながら癇癪を起こした子供の様に叫び続けだ。「加奈子好きだよっていっつも言ってたくせに。誰よりもお前のことが好きだって。娘よりお前の方が好きだって言ってたくせに。どうして、好きじゃなくなるの。ねえ、どうして?涼ちゃん」
 涼は黙って彩香の事を見つめていた。
 「私には何も言ってくれなかった。私の名前だって呼んでくれたことない。おい、あいつ…。おい、あいつ…って言って…。私、ずっと我慢してきたのに。誰にも言わないでずっと我慢してきたのに。でも、最後にこの気持ち言ってやろうと思ってやっと言った。そしたら、お母さんのこと死ねって言った。お母さんのこと…あんなに苦しんでたお母さんのこと…」彩香は袖をぐいぐいと引きすぎて肩が出た。
 涼が近づこうとすると、彩香は後ずさりながら叫んだ。
 「こっち来ないでよ」彩香の額には血管が走っていた。
 涼は足を止めた。
 彩香は顔をくしゃくしゃにして泣いた。「もう帰って。私も家に帰る」
 涼は手を差し伸べた。「だめだよ。一緒に帰ろう」
 「やだ。もう帰って。本当に帰って」
 涼は目尻を落とした。
 「帰って。帰ってよ」
 「俺は絶対、彩香のこと捨てたりしないよ。勿論、俺の家族もね」
 彩香は鼻をすすった。
 「俺は彩香のこと裏切ったりしないよ」
 「そんなのわかんない」彩香は首を横に振った。「人なんて、みんな嘘つきだよ」
 涼は黙った。
 「本当に帰って。お願いだから」彩香は背を向けた。「もう涼ちゃんの顔も見たくない」
 涼はしばらく彩香の背中を見つめた。
 「何無視してんの。早く帰って」
 「家で待ってるよ。俺はずっと待ってる」
 「待ってなくていいよ。もう行かないから…」彩香は呟いた。「もう二度と行かない」
 「そんなこと言わないで」涼は大きく息をついた。「待ってるからね」
 彩香は黙っていた。もう何を言われても返事をするつもりはないとその背中に書いてある様に見えた。
 彩香は肩を揺らし、鼻をすすり、伸びた袖で一生懸命に涙を拭いていた。
 涼は仕方なく彩香に背を向けて歩き、やがて勝手口を開けた。
 その時、彩香は振り返って叫んだ。
 「ねえ。何で本当に帰るの?」
 広大な闇にその声は響いた。
 涼は額をポリポリと掻いた。「だって、彩香が…」
 「だってじゃないよ。本当に帰る事ないじゃん。こんな所に置いてくなんて」そう言って、彩香はまた大粒の涙を零した。「ひどいよ、涼ちゃん。こんな所に置いてくなんて」
 涼は額を掻きながら戻って来て彩香の前に立った。彩香の潤んだ瞳はじっと涼を見つめている。
 「もう戻ろう?」涼はそう言った。彩香は首を横に振った。「風邪ひいちゃうよ、こんな所いたら」
 「別に寒くないもん」彩香は袖をぐいぐいと引いた。
 「これからもっと冷えてくるよ。夜は寒いってニュースでやってた」
 彩香は脇に視線を反らし、口を尖らせた。
 涼は歩み寄って手を差し伸べた。「一緒に帰ろ」
 「だからこっち来ないでよ」彩香は叫びながら後ずさった。「何回言ったらわかるの?顔も見たくないんだってば」
 「分かったよ。ごめん」涼は足を止めて額を掻いた。「彩香。でも、どうすればいい?」
 彩香は涙を拭った。「わかんないよ、そんなの。私に聞かないで」
 涼は黙った。
 「もう何もわかんない…」彩香はそう言って、顔を覆ってうなだれた。
 涼はその大きな目で彩香を見つめた。手を差し伸べることも出来ず、かける言葉も見つからない、そんな自分をとても小さく感じた。
 「一人で考えたい」彩香は呟いた。
 「俺がいちゃ駄目なの?俺も一緒に考えたい」
 彩香は首を横に振った。「いい。一人で考えるから」
 涼は黙って彩香を見つめた。
 「もう帰るなって言わないから帰って。ちょっと一人になりたい」
 「分かった」涼は工場の中を見渡した。「何かあったら、すぐに呼んでね」
 彩香は頷いた。
 涼は工場から出て行った。
 彩香は再び一人になった。すぐ近くに、腰の高さほどの、囲い付きの鉄製の台車があったので、彩香はその上に腰をかけた。
 鼻をすする音が闇に消える。どれだけ大きな音をたててすすっても誰にも聞こえない。零れた涙は油の染みた床の上で鈍く光る。これに気付く者もいない。投げだした足は地についていたが、その足で歩きだそうとする自分もいない。
 お尻に鉄の温度が伝わってくるとひんやりと冷たかった。
 「彩香ちゃんの体って、ほんと温かいのねえ。天然のホッカイロみたいで本当に気持ちいい。ねえ、今度おばさんと一緒に寝ない?」
志摩子の声が聞こえた気がする。
 「あんたが側にいると暑苦しい」
 でも、その声がかき消されそうになって、いつも耳をふさぐ。
 また涙が流れる。
 人の何十倍、何百倍、涙を流した人生なのかと思うと、悔しさも滲んでくる。
 でも、それ以上の圧倒的な寂しさが勝る。
 それ故に「…」の笑顔が怖い。
 堂々巡りになる。
 またどれだけの時間そのままでいたか分からない。
 勝手口が開く音は一向にしない。その代わりに彩香のお腹が鳴った。気が付けば、喉も乾いていたし、工場の中も少し肌寒くなってきて指の先が冷たくなっていた。
 彩香は外に出た。もう真っ暗だった。
 辺りを見渡し、涼の姿がないか探した。いない。
 彩香はまた宛もなく歩き出した。
 加奈子と住んでいたアパートはまだある。叔父の家に帰ることも出来る。でも、どちらに行く気にもなれない。一人になれるアパートに行く方がまだ幾分かましかと思うが、あそこに居ても嫌な記憶しか思い起こさない。
彩香は公園に向かおうと思った。あの桜が見たかった。滑り台の上に上がってあの桜を眺めて、気分を落ち着けようと思い、御殿山の坂を上がった。
 やがて、坂を上がり切って、公園の滑り台が見えて来たところで、彩香は足を止めた。
涼がいた。
 涼は一人、赤い滑り台の上に座って桜を見上げていた。
 すると、涼は、彩香が来た事に気付き、滑り台を軽快に滑って降りて来ると、お尻をパンパンと叩きながら、あのいつもの笑顔で笑った。
 公園の時計は8時を指していた。
 彩香は公園の中に入って涼の目の前に立った。そして桜を見上げた。今日もとても綺麗だった。
 「みんなも、ご飯食べないで彩香のこと待ってるって」
 涼はそう言って口の右端を二ッと上げて笑った。
  「…」
  そして、そう言った。
 その時、涼が特別気の利いた台詞を言った訳ではない。
 小さい頃からずっと知っている仲だからでもない。
 初めて男の子と意識した初恋の男の子だからでもない。
 どんな時も、自分を家族の様に思ってくれる特別な存在だからでもない。
 そんな単純な一言で十分だった。
 それを聞いた途端、彩香は口をへの字に曲げて泣き出した。まるで子供の様に声を出して泣いた。父親に怒鳴られた時も、加奈子に叩かれた時も、叔父にそっけなくされた時も、ここまで強く泣いた事はなかった。
 彩香は自然と涼の胸に身を寄せた。涼はその体を抱きしめた。
 「ひどい事いっぱい言ってごめんね」泣きじゃくって子供みたいな声が出た。
 「そんなことないよ」涼は彩香の額に顔を寄せた。その柔らかい髪の毛からはとても良い香りがした。目頭の熱が服の上から伝わり、呼吸の熱が首元に触れた。
 でも、その小刻みに震える体はとても冷たかった。
 「寒い?大丈夫?」涼はそう言って彩香の背中をさすった。
 「ちょー寒い。大丈夫じゃない。あんな所に置いてくなんて」
 「ごめんね」涼は微笑みながら、彩香の頭を優しく撫でた。「もう置いてったりしないよ」
 「どうして前で待ってないの?」
 涼は上を向いた「そうか。それは思いつかなかった」そう言ってはにかんだ。
 「思いつかなかったじゃないよ」
 「ごめんね。今度は待ってるようにするから」
 「ごめんねじゃないよ」
 そう言って、彩香はしがみつくように涼の体に腕を回した。その体は見た目よりずっと大きな体だった。彩香は、母親の体を出て以来聞いた事のない人の心臓の音、感じた事のない人の体温、触れた事のない人の優しさを感じた。そして、涙が流れれば流れる程、目頭が熱くなればなる程、胸の辺りがじんわりと暖かくなっていくのを感じた。再び閉ざされようとしていた気持ちが暖かく溶かされて行くようだった。
 彩香は顔を上げ、涙に濡れた真っ赤な目で涼を見た。涼はあの笑顔のまま、こちらを見つめている。その目は今日も凛とした眉の下で強く輝いている。まるで黒琥珀を埋め込んだような大きくて力強い瞳。
 「本当に、ずっと一緒にいてくれる?」
 涼は頷いた。
 「困った時は俺を呼べばいいって言ったじゃん」
 涼は、袖の中にしまったままの彩香の手を取った。「手冷たい」そう言って、花束を包む様にその手を取り出し、両手で包んで暖めた。
涼の手は大きく、お湯に手をつけているように暖かい。その繋いでいる手の先から、冷たい物がすべて吸い取られて行くようだった。
 「次こっち」
 彩香はそう言うと、逆の手を涼の前に出した。涼はそんな彩香の様子に笑みを浮かべながら、その涙で濡れた手を両手で包んだ。
 彩香は、温まったもう片方の手で涙を拭った。
 「俺、その髪型が一番好きだな」
 「じゃあ私一生この髪型でいる」
 涼は口の端を上げて笑った。
 「私一生涼ちゃんの側にいたい。もう誰とも離れたくない」
 涼は彩香の目を見つめた。
 「絶対に捨てないって約束して」
 「…」
 涼は真っ直ぐ彩香の目を見つめてもう一度そう言った。
 彩香も、じっと涼の目を見つめて、その黒琥珀の中の意思を探った。
 「絶対?」
 涼は頷いた。
 「絶対」
 とはいえ、彩香はまだ、その単純な一言を正面からすべて受け入れる勇気はない。でも、この正直な大きな目を信じ抜くことが出来れば、やがてはそれに辿り着くことが出来るかも知れないと思った。
 二人はしばらくの間、見つめ合った。
 やがて、突然、彩香の頭がニワトリの首の動きの様に動いた。まるで、しゃっくりをした時の様だった。
「あれ?」
 そう言って彩香は胸の辺りを抑えた。すると、次第に彩香の呼吸の音が高くなり、やがて喉を擦切る様な荒い息使いに変わり始めた。
 「どうしよう。興奮しすぎたかも」そう言って彩香は無理に笑ったが、顔を歪め苦しそうな表情をした。「涼ちゃんが格好いい事ばっかり言うから」
 涼は、はにかんだ。「そんなことないよ」そう言ってポケットから喘息の吸入器を出すと、それを彩香の口元に運んだ。
 「どうして持ってるの?」彩香はそう言って吸入器を受け取ろうとしたが 「いいよ。持ってるから」涼にそう言われてそのまま涼の手から吸入器を吸った。
 涼はその背中を優しくさすった。
 「だって「…」だから」涼はそう言って、わざと得意げに口の端を上げて笑って見せた。
 その顔を見て、彩香も表情を緩めた。
 やがて、呼吸が落ちついてくると、涼は彩香の目元を拭いながら言った。
 「今日ハンバーグだって。彩香も一緒に食べるでしょ?」
 彩香は濡れた両の頬を大きく上げて、にやっと笑った。
 「一緒に食べる」
 彩香の表情に果実の様な彩りが咲いた。


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