エピソード 8 「公会堂」

「EP 8 公会堂」
 一同を乗せた車は、賑やかで明るい都市部を抜け、人気のない湾岸の工業地帯へと進んでいた。
 幹線道路から一つ曲がった途端に、辺りは急に真っ暗になり、工場にある守衛室の明かりが小さく灯っている程度。人が歩道を歩く事もなければ、通る車も非常に少ない。街灯も乏しい中、自車のヘッドライトを頼りに進んで行くと、信号機の光が妙に明るく感じる程だった。
 彩香が少しだけ不安な顔をした。それを見た涼は彩香の手を握った。振り向いた彩香は、すぐに笑みを浮かべた。涼があのいつもの笑顔をしていたからだった。
 「ちょっとちょっと、車の中でいちゃいちゃしてもらわないでくれます?」
ルームミラーでその様子を見たユウジが冗談交じりに言うと、他の3人がくるっと後ろを振り返った。
 「お前ら付き合ってんの?」マコトが聞いた。
 彩香は頷いた。すると、3人は「おー」だの「へー」だの「ほー」だの、妙に感心した声を出した。四人は、14歳で煙草を吸い、無免許運転だのをしていても、女性に対する経験と関心は年相応な所であった。
 「…」
 運転席からユウジがそう聞いた。その声は車内のざわめきを貫いて涼に届いた。途端、車内はしん…と静かになり、ルームミラーいっぱいになったユウジの目、そして三人の視線が涼に集中した。
 はにかんだ涼は額を掻きながら言った。
 「…」
 次の瞬間、車内に、わーっと言う少年達の歓声が上がった。彩香は「もう!」と言って、涼の肩を叩き、その肩に顔をうずめたが、それは誰がどう見ても、嬉しそうで仕方がなさそうという様子だった。
 「すげえ…」マコトは目を点にして、彩香の足先から頭の先までの曲線を視線でなぞりながら「ゴク」っと喉を鳴らし唾を飲んだ。
 「品川って進んでんな~」シュウは言った。
 「でも、うちの兄貴だって中一って言ってたぞ」ユウジが言った。
 須藤は「ふん」と、一言言ったきり、腕を組んで窓の外を向いたが「聞きたい事が盛り沢山」と言った具合の表情がその窓に映っていた。
 すると突然、遠くの方からバイクの甲高いエンジン音が響いて来た。
 ブウーン!バン!ババン!バンバン!バン!ババン!バンバン!
 エンジンを猛烈な勢いで空ぶかしする音だった。
 「お、やってるやってる」ユウジは窓を開けた。音は工場街の奥の方から聞こえて来る。
 ブウーン!バン!ババン!バンバン!バン!ババン!バンバン!
 「このコールはシンヤ君だ!」
 ユウジは弾む様な声で言った。声の通り、体も椅子の上で弾んでいた。
 「コール」と言うのは、エンジンを小刻みに連続でふかして、一定の決まった調子でリズミカルな音を鳴らす、その一連の流れの総称である。チームごとに決まったコールがあったり、個人で独特の鳴らし方があったりもする。
 ブウン。バババババババン!バン!バババン!
 「これは、クマ君かな?下手なコールだな」マコトが呟いた。
 工業地帯の奥へ車を走らせていくうちに、その音はどんどん大きくなっていく。やがて、その音は数台の音に代わり、いくつもの激しいエンジン音が雷鳴の様に響き始めた。
 彩香は不安から胸の鼓動が高鳴った。それを察した涼は彩香の手を取り「…」と聞いた。彩香は「大丈夫だ」と答えたが、その顔から心配の色が消えない。
 「怖い?戻る?」
 彩香は黙って首を横に振った。
 「女は大丈夫だと思うぞ。もしかしたら涼は駄目かも知れねえけど」
 マコトはそう言って笑った。
 やがて、工業地帯の最深部に到着すると、音の主達の全容が明らかになる。
 それは「横浜暴走愚連隊」と言う名の、集団でバイクに乗り暴走行為を行う、いわゆる暴走族と呼ばれる少年達だった。20歳前ぐらいの少年達が中心で、涼達と同じぐらいの歳の子達もいる。その当時、愚連隊は最盛期で、警察が言うには「最悪の時代」、彼らが言うには「黄金時代」と呼ばれる頃で、総勢150名ほどの少年達が「捕まらない愚連隊」の名を掲げて集まり、夜の工業地帯はまさに無法地帯と化していた。
 暴走族と言うと、特徴的なのは、派手な刺繍が沢山施された着丈の異様に長い学生服のような「特攻服」と言う出で立ちと、派手に改造されたバイクである。バイクは、ハンドルがカマキリの鎌のような形になっていたり、異常に大きな背もたれが雷マークの様に突き出していたりする。全体的な色使いにも赤や紫等が多く、中には日章旗が貼られているバイクもあったりと、どれも極端で挑発的なデザインをしている。
 そんな彼らが、そんなバイクを傍らに停めて仲間同士で輪になって座り、工業街のそこら中にたむろしていた。巣から飛び出した蜂の様に縦横無尽にバイクで走り回っている者もいれば、道路の真ん中で焚火を上げてジャガイモを焼いている者、どこからか盗んで来た打ち上げ花火を上げている者、これまたどこからか盗んで来た大型トラックのタイヤの上をサーカスの様に走り遊んでいる者。それらを見てゲラゲラと笑う者。そこでは不良少年が好む遊びは何でも出来る。彼らにとっての楽園だった。
 彩香は、その光景を見た時に、まずは恐怖を感じたが、その気持ちの側に同じ大きさの興味も沸いていた。同じ年ごろの少年少女達が、これだけの数、これだけ楽しそうにしている所はこれまで見たことがない。
涼も、ただ黙って、窓の外を眺めていた。
 そして車は彼らが聖地の様に崇める「公会堂」と言う場所に着いた。誰が初めにそう言いだしたのかは分からないが、今では警察がそこを指す時もそう呼んでいる。元々は、戦後間もない頃に、外国人の一時入居施設として建てられたもので、後年に建てられた小さな学校も併設されている。それが時代と共に役割を終えて、何にも使われなくなった後も、数十年以上、放置されている状態、やがていつの間にか不良達の絶好のたまり場となった。
 公会堂は四方を塀に囲まれている。中央の門をくぐると、元は小規模な校庭だったコンクリートの広場が広がっていて、周囲を桜の木が埋め尽くしている。広場の中央には一際大きな桜が一本立つ。敷地の中は真っ暗で、コンクリートの地面はひび割れ、地上4階建ての鉄骨造りの建物も廃墟の様になっていた。
 彩香は車内からその公会堂を一目見た時に、怯えていた気持ちがすべて消え去っているのに気がついた。だだっぴろく無機質な工場地帯の中で、しっとりと静まるその場所が、どこかあの場所に似ていたからなのかも知れない。
 涼も同じ気持ちで公会堂を眺めていた。だが、まだその場所がどこだったか思い出せない。とても懐かしい感じがすることだけは覚えている。
 「それどこのネックレス?」シュウが突然、涼に聞いた。
 「これ?ティファニーだよ」涼はネックレスを襟から出してシュウに見せた。
 「へー可愛い。メンズもあるんだ」
 「ううん…」涼の声は沈んだ。「これレディースだよ」
 「その、ネックレスに付いてるのは…ゼンマイ?」
 「そう。家にある時計のやつ」そう言って、涼はネックレスを外してシュウに渡した。
 「へー。家にそんなのあんだね。この鍵のマークも格好いいね」
 「それ家紋だろ?すげえな。ゼンマイに家紋が入ってんだ?」マコトが横から言った。
 「そう。それ笹竜胆って言うんだよ」
 「へー。涼の持ってるものって面白いな。今度、まじで家遊び行ってもいい?」
 後部座席でそんな会話をしている間に、ユウジは辺りをキョロキョロと見渡して、車を停める所を探していた。
 「下手に停めっと、またクマ君に言われっからな…」ユウジは呟いた。 「あ、カオルの車があった。あいつの前でいいや」
 車を停めると、皆は、すぐにドアを開けて降りて行った。その一番後に降りた涼は、彩香に手を伸ばしたが、彩香は奥の席に引っ込んだままだった。
 「乗って待ってる?」
 涼がそう聞くと、彩香はゆっくりと首を横に振って、涼の手を取り、その手に引かれて車から降りた。
 「アキナ君に紹介する」ユウジは手招きをした。
 その四人の後ろを涼達はついていった。
 道路にたむろしていた男の子達は彩香の事を見ると目を丸くした。車のボンネットに座っていたものを背筋を伸ばし、停車するバイクの上に座っていた者は降りて彩香の事を見た。そして、彼らは彩香を指さして口々に言った。
 「まぶいな」「めっちゃまぶい」「まぶいじゃん」「まぶくね?」
 「まただ…。まぶいって何なんだろう…」
 彩香は頭の中でそう呟きながら歩いた。
 たむろする少年達のグループの中には幾人か女の子も混じっていた。普通の女の子がする様なお洒落をしている子もいるが、大抵は、他の男の子達の様に、派手な髪色に、ガラの悪い派手なジャージ等を着ている。特攻服を着ている子も中にはいる。でも、それは愚連隊の特攻服とはデザインが少し違い「珠會流」やら「龍」という刺繍が目立つ。
 そんな不良少女達は、彩香に気付くと、ポケットに手を入れ、体を斜めに構えて立ち、いわゆる「ガン」を彩香に飛ばした。彩香は思わず方をすくめ、彼女らと目を合わせないように歩いた。
 「みんな彩香に興味深々だ」マコトはそう言った。
 門の前に付くと、ユウジだけが公会堂の中に入って行き、涼達はそこで止まった。
 ユウジには6歳年上の兄がいる。その兄の関係から、ユウジだけは昔から横浜の不良界に顔が効いた。
 「オッケー。行こうぜ」
 ユウジはすぐに戻って来た。
 6人は公会堂の中へと入った。
 施設には一切電気が通っておらず、非常口のランプもカバーが割れたまま放置されているような状態だった。通りから差し込む外灯と月明かりしか頼りがない。目が慣れて来ても手の平の線が見えない程だった。
 外の騒がしい様子とは違って、中では、輪になって地べたに座り静かに話す4~5人のグループが二組と、数か所に置いてある錆びたベンチに腰かけて話す者が数名いるだけだった。
 とても静かだった。
 涼は空を見上げた。
 星は一つもないが、月明かりがとても綺麗だった。
 彩香も同様に空を見上げていた。
 「…」
 彩香はそう言った。
 「俺も思った。そう…さっきから思ってたんだよね」
 「桜」
 「うん。桜だね。それも同じだ」
 中央の大きな桜の木の下のベンチに、とても体の大きな男が座っていた。一同がユウジを先頭にその男の元へと歩いて行くと、男はゆっくりと立ち上がった。
 それが、総勢150名程の少年達をまとめるアキナと言う男で、黄金時代の総長という名に相応しい屈強な体付きをしていた。グレーのタンクトップから溢れる体はプロレスラーの様で、腕の太さや、顎の造りまで、すべてが規格外に大きかった。煙草を持つ手も勿論大きいので、まるで楊枝を吸っている様に見えた。
 彩香は口をぽっかりと空けてその男を見上げた。でかい…。とにかく大きい。これだけ大きい人を肉眼で見たのは初めてのことだった。
 アキナは涼の目の前に胸を張って立ち、眼前に立っているというのに、わざと大げさに煙草を吸い、涼の顔の前でその赤い炎をジリジリと燃やした。
そのアキナが目の前に立つと、長身の涼ですら、とても小さく見えた。
 「なんでパジャマなの?」アキナは笑った。
 「これが一応…私服です」
 「ふーん。名前なんつーの?」
 「涼です」
 「でけえな。身長いくつ?」
 「180ちょうどぐらいです」涼は静かに淡々と答えた。
 「ふうん」
 アキナは煙草を吸った。その強い肺活量に吸われ燃えていく炎の量がとても多かった。
 「見た感じ、すげえボンボンって感じだな」
 「…そうですかね」涼は額をポリポリと掻いた。
 「それはなに?」アキナは物を指すように、涼の後ろにいた彩香を指さした。
 「彼女です。彩香って言います」
 「あ、そう。彼女なんだ」そう言ってアキナは彩香の体を下から上まで見た。その視線が一度、股間の辺りで止まったので、彩香はすっと手を前に組んだ。
 「喧嘩できんの?」
 「あんまりしないですけど…キックやってます」
 「しねえのに来たのかよ。いざん時やらなかったらヤキだからな」
 「はい。聞いてます。大丈夫です」
 「ふん。本当に「大丈夫です」かよ」アキナは涼の手を見た。視線に気づいて涼が自分の手の平を見ると、アキナはその手を乱暴に手に取った。
「ケンカだこはないんだな」アキナは涼の手を確かめるようにまじまじと眺めた。
 「はい。あのグローブつけてるんで…」
 アキナは次に、黙って涼の肩の辺りを揉んだ。強い力で、少し痛かった。
 「どんぐらいやってんの?」
 「5年ぐらいです」
 「なるほどね」
 「はい…」
 すると、アキナは、うんうんうんと、3回わざと大きく頷く様な動きを見せたかと思ったら、突然、大きく拳を振りかぶって涼の顔面めがけ殴りかかった。それを見ていた一同は突然の事に驚き「あっ」と言う声を漏らした。彩香は大きく目を見開いて、反射的に思わず両手で口を覆った。
 だが、アキナの拳は、涼の顔に当たるか当たらないかというぎりぎりの所で止まった。涼は表情一つ変えず、微動だにしていなかった。涼は、アキナが振りかぶった瞬間から、それが当てようと思っているパンチではない事が分かっていたからだ。どうしてかと聞かれたら、そんなアキナの性格を一瞬で見抜いていた…としか言いようがない。あの「うんうんうん」と言う下手な芝居をした時から、この行動は予想の範囲の上、そして彩香のことを物を指すように指した時から、涼はこの機会を待っていた。あくまで生意気が出ない程度に鷹をくくってやる機会を。それが今の涼にとって、幼稚な脅かしなんかに一切動じず、微動だにせずそこに立つという行動だった。
 アキナは涼の目の奥にある、その生意気を睨んだ。
 涼はじっと黙って、アキナと目を合わせた。
 結果的に、アキナはその根性を買った。
 「いいね。入れよ」
 そう言ってアキナはにやっと笑った。その後、火の付いた煙草を足元に投げると、一同の間を抜けて公会堂の外へと出て行った。
 涼は、その煙草の火を足でグリグリと踏み潰して消した。
 ユウジ達3人は栓を開けた様に、それぞれ思った興奮を話した。
 「度胸あるな」「見切ったの?」「すげえな、びびんなかった?」「涼、喧嘩強そうだな」「まじやられるのかと思ったよ」「かっこよかったな」
 涼は彩香の顔を見て満面の笑みを浮かべた。
 「受かったみたい」そう言ってピースを彩香に向けた。
 彩香は、驚いて口を覆っていた手をゆっくりと外しながら、徐々にその表情も緩めていった。やがて、その顔はいつもの果実の様な彩りを見せた。
そして彩香が言った。
「…」
 それは、あの日、志穂が涼と彩香に向かって言った事と同じ言葉だった。
 彩香も顔の側でピースサインを作って見せると、涼は口の右端を上げて笑った。
 「な?アキラ。俺が思った通り。涼は根性あるだろ?」ここでもまた終始腕を組んで黙っていた須藤に向かって、ユウジがそう言った。
すると、須藤は黙って、涼の前に手を差し出した。
 涼は黙って、その手を取って微笑んだ。
 「ユウジと、アキナ君が認めたんだ。仕方なくだ」須藤はそう言った。
二人が握手を交わすと、ユウジ達は顔を見合わせてニヤっと笑った。
 「私は?私も一緒に入りたい」彩香が自分を指さして言った。
 一同は顔を見合わせた。
 「女は入れない。駄目だ。あ、そうだ。じゃあ、今度ナナコ紹介してやるよ」と、ユウジが言った。
 「えー?あの女番長を?」そう言ってマコトは顔をしかめた。「モモコの方がいいだろ」
 「怖い人なの?」彩香が聞いた。
 「怖いって言うか、こんな頭したスケバンだよな」ユウジは前髪が前に大きく張り出しているジェスチャーをした。
 「あれはやばい。女じゃない」
 「男だ」
 「男男」
 「男の中の男だよな」
 「むしろ付けた方がいいよな」
 「いや、実は、もうついてるんじゃね?」そう言って四人は笑い出した。
 「そうなんだ。楽しみにしてる」彩香はそう言って笑った。
 「よし、じゃあ、早速、みんなで一発走りに行くか」
と、ユウジが音頭を取ったその時、涼は久しぶりにあの嫌な声を聞いた。
 「なんだ、おい。涼ちゃんじゃねえか」
 そのしゃがれた声、細い目、団子鼻の、背の低い、天然パーマの、そばかすだからけの頬、悪口を言うだけの口、いつも革のコートを着た…。
 「カオル…。何してんの?」
 それは涼と同い年で御殿山出身、幼稚園、小学校、中学と同じレールを歩んでいたカオルと言う名の少年だった。警察官僚の息子でありながら、大のいじめっ子であり、彩香は小学校時代や、あの公園で遊んでいる時から、カオルに対して、まったく良い印象がない。
彩香は目を伏せた。
 「ウケる。お前ら付き合ってんの?ドロップアウト同士で仲良くつるんでる訳だ」
 そう言って、カオルは金色のライターで煙草に火をつけた。夏なのでさすがに革のコート姿ではなかったが、白いティーシャツの上に妙に着丈の短い黒い革のベストを着ていた。ズボンは勿論革である。それが異常に似合わない。スタイルの悪さと団子鼻が相まって、工場街の夜のピエロと言った印象だった。
 「悪いかよ」
 涼は彩香を庇いながら、むっとした顔でカオルを睨んだ。
 「ふん、変わんねーなお前らも。っていうか、何でお前らがここにいるんだよ」
 「俺が誘ったんだよ。客と一緒にうち来てて、それで友達になったんだ」ユウジが言った。
 「ふーん。お前ん家の工場、客来ることあるんだな」そう言って、カオルはケッケッケとカエルが鳴くような特徴的な笑い声を上げた。
すると、須藤が一歩前に出てカオルを睨んだ。それに対して、カオルも少し前に出て、薄ら笑いを浮かべ須藤と目を合わせた。カオルはその小さい体でも柔道を5年やっている。よく見ると胸板も厚く、喧嘩には自信があるほうだった。
 「なんだよてめえ。」須藤は睨みを効かせた。
 カオルはそんな須藤の圧をあざ笑う。「なんだよじゃねえよ。てめえがガンくれたんだろ」
 「やんのかよ」
 「やってもいいけど、俺勝つよ?」
 すかさずユウジが間に入ってそれを止めたが、須藤はじっと黙ってカオルを睨んだまま。カオルは変わらずにふざけた態度だった。
 「ケッケッケ。まあまあ。そんな熱くなんなって。殴り合ったってなんも特するものねえんだからさ」
 「てめえが先に喧嘩売ったんだろ」
 「バカはすぐこれだ。むかついたらすぐ暴力に走んだな」
 カオルがそう言うと、須藤はまた頭に血が上り、制止するユウジを振り切ってカオルに迫ろうとしたが、そこにマコトも加わって二人で須藤を抑えた。
 「もういいだろ。行けよ」マコトが言った。
 「ふん。まあ。せいぜい俺のケツ引っ張んなよ。涼ちゃんよ」
 カオルは涼の顔を指さしながらそう言い残して、丈の短い革のベストを風に靡かせ、小さい体で颯爽と去って行った。
 「本当うぜー、あいつ。誰かに刺されて死ねばいいんだ」シュウが言った。
 「そんなこと言っちゃ駄目だよ」
 涼はそう言った。
 「あの野郎。親がお偉いさんじゃなかったら、5回は殺してるな」須藤が言った。
 「まあまあ、みんな、もういいじゃねえか。よし。気取り直して走り行こうぜ」
 ユウジは再び音頭を取った。
 そうして、皆で公会堂を出ようとした時に、彩香はふと気になって、中央の桜を振り返った。
 しっとりとした闇の中に立つ大きな桜。空一杯に広がった枝に、立派な太い幹。もう何十年そこにあるのだろう。春には両手いっぱいに咲かす姿が目に浮かぶ。でも、その悠然なる姿は、どこか物悲し気に見える。こんな暗い工場街の奥地のひっそりとした場所で、誰の目にも触れられることのない、その桜が。
 彩香は、さっきこの場所を「…」みたいだと言った。
 ならば、その桜は…。
 彩香は、同様に振り返っていた涼と目が合った。
 「多分、俺達、同じ事思ってるよね」
 彩香は涼の手を取り、二人は手を繋いで歩いた。
 「…本当になっちゃったね。暴走族」
 彩香はそう言ってにやっと笑った。
 涼は空を見上げ、大きく息を吸った。
 「ね。暴走族かあ…」
 星は一つもないが、月明かりがとても綺麗な夜だった。
 そうして、涼の暴走族生活が始まることとなった。

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