マガジンのカバー画像

いじめ被害回想録〜東村山第七中学校編〜

33
昭和59年度〜61年度に在籍した東村山市立東村山第七中学校時代に受けたいじめ被害のだ回想を執筆しました。
運営しているクリエイター

#不登校

いじめ加害者との話し合いを拒否したという判断は正解だった

1984.冬頃の中一の時に上記記事で執筆したいじめを受け、部活等の都合の有無に関わらず、加害者側の意向で 私に対する不満がある理由で「話し合い」を当時の担任及び副担任だった部活の顧問が容認・立会いで行われた。 授業が終わって帰宅及び部活に出ようとしては加害者らに捕まってしまい、 私が悪いということを認めるまで帰らせない ということで強引に引きづられた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私が言った通りだった主犯格の加害者に推薦されてやらされた委員会

体育会系並みの強さを持って欲しいという試練

出生して約半世紀を迎えようとしている私だが、 本来の性格は文系並みの弱々しさがある と小学校時代に習っていた書道の先生に評されたことは勿論、 早くから壮絶ないじめ被害受けて、 #不登校 をしてもおかしくないものの、 #苦登校 を強いられた ことによって、 #昭和脳 を持った人が集まった職場に長くいられたと他の友人・知人達に賞賛されたことがあった。 なぜこんなに強くなれたのか酷い仕打ちを受けた私にもよくわからない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ミスに

光の庭〜 #いじめ被害 激化と思春期の序章〜

表題は1984.4の中学の入学式をした学校の中庭の別称である。 その当時は校舎が落成したばかりで、体育館が完成していなかった為に止む無くそこで行われた。 新設校でやる入学式に参加する私を含めた生徒は第1号であったのは勿論、同然校歌がないまま三年生不在で敢行することになった。 私と同じ小学校から来た生徒は数少なく、面識がない他校の生徒と新しい #人間関係 が築くことが出来ればと願いつつ、極寒の中で起立したまま参列した。 昨日の季節外れの極寒であったことから吹抜けからくる

苦登校を強要された側の行動

表題の経験した私は、何も意図せずクラスメイトに対して 失礼な行為をしたと思われ、心無い発言をされたことがあった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1.人を避ける行為かなりの頻度で #いじめ被害 を受けていても逃げてもおかしくない状態でありながら、両親に登校を促され、やっと登校できたと思いきや、加害者と思われる人物の前を反射的に避けて通った。 それを見た私の歩き方に対して批判されたことから彼・彼女らに私のことを嫌っており、そのようなことをやめるように同じグルー

苦登校経験

表題はひどい #いじめ被害 にあってまともな学校生活を送れないレベルにもなったにも如ず、かなり厳格な両親に無理やり登校させられた経験がある。 具体的にいうと、授業中指名させられて音読中に知的障害者に近い話し方と感じられただけでなく、極度の運動音痴であることを理由に笑われたり、不良達に呼び出されて暴行を受けるなど日常茶飯事だった。 今の子供達はそのレベルになった時点で逃げ出すような形で「 #不登校」をという選択をするだろう。 うちの場合は社会に出てもこのようなことがあるの