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art log: 地球がまわる音を聴く パンデミック以降のウェルビーイング

第9番
世界と一緒に回らなかった日


私が今生きているかどうかを確かめる方法はあるのだろうか。

3歳の子供でも、死にかけている人でもできる
意味の無いことの繰り返しなんて。
こんなもので確かめられる訳ないだろ。

非日常性は日常の地続きであり、
生きることは本来的に単純な繰り返しである。

分かる。でも確かめることは出来ない。

私の表面に堆積する時間は217885時間。
今この世から突然わたしがなくなったって
宇宙からしたら塵芥である。

ヘーゼルナッツの花粉を
あまりに大きすぎるキャンバスに敷き詰めるなんて、そんな無駄なことをするな。

その花粉を蜂が運び、
生まれるはずだった少量の蜂蜜。

その蜂蜜から出来た蜜蝋の部屋を見て
エコシステムによる自然の尊さを感じる事が出来たが、私は自らの命の尊さを感じる難しさに直面した。

生きていることの毎日の確認作業として
色塗りをしていたおじさんの作品を見て
やはり私の命の限りに
どうでも良さを感じてしまった。

私は、その単純な繰り返しに
飽き飽きしてしまっているからだ。

地球と一緒に回らなかった日は、ほとんど死んだような私の日常の地続きにある非日常へ連れていってくれるスパイスだ。

当たり前や単純な繰り返しへの逆行。
それが私を生かす、
そして生を確かめる方法なのである。

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脈拍の曲
お互いの脈拍をその人の腹に耳をあてて聴く
1963年冬

永遠を噛み締めていたくなる言葉。
寒い冬を避けるように部屋に入って気がついたら永遠の眠りを手に入れている。

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逃避c.「あと半日もすれば」はいつものこと

非日常性は日常の地続きであり、
生きることは本来的に単純な繰り返しである。

他の生物のことはよう知らぬが、
私が息をしている間に
地球は自転という壮大な営みを繰り返している。

「くりかえす」

これがパンデミック以降を生きることの本質なんだろうなと思った。

私は敢えて過酷であろう道を態々選ぶ事が多い。
人生のどの分野においてもそう。
今の自分を捨てて1度まっさらな状態にするために
「自殺」をして新しく生まれ変わる感覚。

この工程を私は完全変態と呼ぶ。

好きな人と仕事をして
好きな環境を自分で創って
好きな人と過ごして
言葉を交わして

それが幸せだと思っていたけれど、
じゃあなんで鬱になるんだろう。
(根本的な要因はあるが)

私は日々逃避している。
逃げるが勝ちだと思っている。

日常の地続きにある非日常を作り出すために
偏屈な険しいエベレストに目を向けている。
想像する。表現する。逆行する。
それが私のウェルビーイングなのではないかと感じた。

環境の変化によりいつでも脅かされる生活に、
繰り返しを持ち込むことの危険性も感じたし、
本質的だなとも思った。

言葉と想像力だけは行動の制限を受けない。
日常的な行為の反復を宇宙規模にスケールさせると様々な発見がある。
自分をちっぽけな存在に縮小して無駄を生きることが、今を生き抜くヒントになるのではないでしょうか。