形式と内容

  松岡正剛さんは『知の編集術』(講談社現代新書)の中で、21世紀は方法の時代である、20世紀に大方の問題は提出された、と書いています。

 確かにその通りで、今は誰もが資格試験の勉強に邁進したり、ビジネス書やセミナーで特定の技術を学んだりしています。「〜術」や「how to」本が大量に出版され、資格試験参考書とともに書店の本棚の大部分を占めています。

 この風潮が善悪を決めることは難しいですが、ある一面で現代社会を象徴的に物語っているといえるでしょう。

 そう、まさしく方法に対する信仰です。プログラミング教育の隆盛からも伺えるように、学校はそれ自体ある技術を学べる場という役割を担わせられつつあります。

 何らかの技術習得の指標を表す資格はわかりやすく、便利なのですが、誰もがその形式ばかり重視するようになったら一体内容はどうなってしまうのでしょうか。

 文学、音楽、美術において形式は内容を統御し、もはや密接不可分の関係です。しかし、形式と内容の一致は、その道具が表現手段としてはなく、その本質である場合に限ります。文学はその文字、音楽はその音符という記号、美術ではその描線や配色というようにです。

 しかしながら、僕の周囲でプログラミングやブログ開設などを試みる人たちは、皆伝えたい内容があるからではなく、ただそれが利用できるから学んでいるようです。

 何らかの意欲がある人をとやかく言うことはできませんが、僕はその中に内容、俗に言えばコンテンツを考える芸術家肌の人間がいても構わないと思います。これは、形式一辺倒の風潮の中でぜひとも打ち立てておかなければならないアンチテーゼの様なものです。

 今誰かが、「プログラミングは現代において必須のスキルである」と言えば、大多数の人が首肯するでしょう。一部の懐疑的な人たちもその存在価値を認めると思います。過去には、資本主義と社会主義がありました。その時に誰かがその両方を無意味だと言えば、おつむの悪い人だと思われたはずです。 しかし、冷戦時代は音を立てて崩れました。おそらくその頃は、これ以上になく堅固なものと思われたでしょうが、世界を二分するイデオロギー闘争でさえ一過性のものだったのです。

 ところで現代においてはどうでしょうか。AIやプログラミングなど、今もてはやされるそれらのキーワードは不易のものでしょうか。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれません。確言できるとすれば、未来は分からないということです。

 長々と世迷言を書いてきましたが、言っておきたいことは、今もてはやされている技術が特に重要でないという反対意見があってもいいのではないかということです。民主主義は大多数の意見の先行ではなく、多様な意見の並存を目的とします。もし、将来をまじめに考える、あるいは実りのある議論をしたいのであれば、そういった少数派の意見をアレルギーのように嫌がるべきではありません。

 その大事な内容について一言触れておきましょう。先の松岡正剛さんの意見のように20世紀には戦争、差別、ジェンダー、周辺民族、公害、医療モラルなど、多くの課題が提出されました。20世紀の文学は、ポール・ヴァレリーを代表として、かなり思弁的でした。

 これでもかと言うほど厳密な思索を20世紀の知識人は遺しています。それらを読めば、もう私たちにすることなど残されていないかのようにも思われます。

 戦後、ヨーロッパ中心の世界構造の脱却化の一環として、第三世界やアフリカ地域に目が向けられ始めました。抽象的な用語を並べたてて曖昧にするのではなく、個別的な事実を丹念に記録することで、既知の世界構造を組み替えていく試みです。

 おそらく現代の私たちもこの方法を踏襲するより他ないと思います。これほどまでに細分化され専門化された世界では、多数人による百科事典的知を形成するほうが便利です。しかし、忘れてはならないのは、知識の集積はそれがある個人の中にある場合は特異な力を発揮しますが、何やら得体の知れぬ非人間的な空漠としたものに集まっているに過ぎない場合は、ただのガラクタに過ぎません。

 人間はその無機質な集合知をどのように再構成していくかがこれからは重要であると思います。おそらく、これも松岡正剛さんの言う「編集」技術に繋がるかもしれません。

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