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11月16日はマルセル・プルーストの日(架空記念日ブログ)

おはようございます。本日は令和5年11月16日(木)です。ただ今の時間は14時42分、今日は夜勤明けで帰って来て就寝、夜勤入りですので先ほど起床しました。寝れたのかよく分からんけど、今日もよろしくお願いします。

今日の架空記念日は?

110年前の今日

1913年11月16日フランスの小説家マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』第1巻刊行。全13巻刊行までに14年費やしました。

フランスの作家ポール・モーラン、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルやその妻でもありフランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワール、日本では小説家の三島由紀夫堀辰雄など多くの人に影響を与えた、ジェイムズ・ジョイスフランツ・カフカと並び称される20世紀西洋文学を代表する小説家マルセル・プルースト。今日はこのお方を見ていきたいと思います。本日もよろしくお願いします。

ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルースト(1871-1922)

マルセル・プルーストという人


1871年7月10日にパリ16区オートゥイユ地区のラ・フォンテーヌ街96番地でフランス人の父アドリヤン・プルーストとユダヤ人の母ジャンヌ・ヴェイユ・プルーストの間に長男として生まれる。

アドリヤン・プルーストとジャンヌ・プルースト

アドリヤンは公衆衛生を専門とする医学博士で官僚まで勤めている。母ジャンヌは実業家の父を持つが、親の稼業は継がずに自身も実業家をしていた。弟ロバート・プルーストは国家レジオンドヌール勲章を授与された優秀な外科医。母ジャンヌは古典文学を愛好し、非常に文学的教養の高い女性であった。マルセルの芸術性の高い感性はこの母から受け継いだ。病弱だったマルセルは母や祖父母にとても可愛がられて育った。

1871年8月ユダヤ人だった母は、結婚後もユダヤ教を信仰し続けたが、マルセルには夫婦で話し合って、父親の家系に倣ってローマ・カトリックの信仰を持たることに決めて、生まれた直後にサン・ルイ・ダンタン教会で洗礼を受けさせた。

1873年5月24日弟ロバートが誕生した。生涯仲の良い兄弟だった。ロバートはマルセルと対照的に身体は丈夫だった。

パリ南西100キロメートルほどの場所に、父の出身地のイリエがあり、ロワール川が近くに流れる自然豊かなこの場所に家族は度々バカンスに出かけた。この町が『失われた時を求めて』の主要舞台となるコンブレーのモデルとなった。現在は作品の聖地として「イリエ=コンブレー」が正式名称になっている。

1881年春マルセルが9歳の時に、ブローニューの森の散策後に喘息の発作を起こす。これにより花粉を心配した父親からイリエにいく事を禁じられ、自由に旅行をする事が出来ず、花が好きにも関わらず生花に近づく事が出来なかった。丈夫だった弟のロバートは父と同じ医学を目指すが、病弱だったマルセルは『千夜一夜物語』『アンナ・カレニーナ』などの文学を親しんだ。

学生時代

1880年からパープ・ガルパンチエ初等学校で2年間過ごした。
1882年10月フォンターヌ高等中学(リマ)に入学した。ブルジョア気質で、自由主義の名門校だった為、マルセルの学友には、ギュスターフ・エッフェル(エッフェル塔を設計した人)の息子やジョルジュ・ビゼー(オペラ『カルメン』を作曲した人)の息子ジャック・ビゼーロスチャイルド家(世界最大の資産家)の子息、劇作家リュドヴィク・アレヴィの息子ダニエル・アレヴィ(後に歴史家)、ジャック・エマール・ブランシュ(後の画家でマルセルの肖像画を描いている)などがいた。マルセルは成績にムラがあり、病弱で欠席が多かった為、1年留年している。

1887年頃15歳の時には歴史家オーギュスタン・ティリエの著書を熱心に読んだ。哲学科のアルフォンス・ダルリュ教授の唯心論的な哲学に大いに感化を受けた。

唯心論とは
心やその働きはあくまでも物質に還元されない独特な性質を持っているとして、物質的存在がその存在を容認されるのは意識によるものである、したがって意識が存在を決定づける。

Wikipedia

授業が終わると、プルーストは他の少年たちと、シャンゼリゼ公園に行き木々の周りを走り回って遊んだ。その中には少女も含まれており、それが『失われた時を求めて』語り手の初恋相手のジルベルトのモデルになった、ポーランド貴族の娘マリー・ド・ベルナダキであり、マルセルはマリーに強い恋愛感情を抱いていた。(関係ないけど、両親の経営するサロンに何度かロシアの作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが演奏に来てたそうです。)

マリー・ド・ベルナダキ(1874-1949)

リセ(高等中学)時代はマルセルは同性愛的な友情に目覚めている。ダニエル・アレヴィにラブレターを送ったり、ジャック・ビゼーに恋愛感情を抱いたが、ビゼー側から強い拒否をされた。またマルセルは彼らの母親にも興味を持ち、社交界に強い憧れて、彼女らのサロンに近づくようになる。文学に意識をはっきりと向けたのもこの時だった。リラの最終学年時には文学好きの友人と同人誌を作成する。

1889年10月バカロレア(高等学校の教育が終了した証)を取得。大学入学前にオルレアン(フランス中部の都市)で志願して兵役についた。(志願すると3年が1年に短縮される制度を利用)

1890年11月パリ大学に入学。最初は法学部に身を置き、その後自由政治学院、文学部にも通い、1895年までに法学、哲学、文学の学士号を取得

1892年ジャック・ビゼーダニエル・アレヴィローベル・ドレフュス(マルセルの幼馴染、後のジャーナリスト)、フェルナン・グレーグ(後の詩人)らと同人雑誌『饗宴』を創刊し、書評や習作、短篇を発表した。『饗宴』には、作家アンリ・バルビュス政治家レオン・ブルム、ガストン・アルマン・ド・カイヤヴェアルマン・カイヤヴェ夫人の息子)も寄稿していた。※アルマン・カイヤヴェは『失われた時を求めて』のヴェルデュラン夫人のモデルになった人

レオンティーヌ・リップマン、マダム・アルマン・ド・カイヤヴェ(1844-1910)

創作活動

1893年に公証人の研修を受けるが早々に放棄
1895年にマザリーヌ図書館で無給司書助手となったが、休暇届を乱発してほとんど働かないまま1899年に退職。以降は一切職に就かなかった。

1896年6月に初の著作集『楽しみと日々』を出版
1900年にイギリスの思想家ジョン・ラスキンの研究を発表
1903年弟ロバートが結婚し独立、同年11月3日に父が勤務先で倒れて26日に死去
1905年11月26日母ジャンヌが死去。母が好きだったマルセルはしばらく立ち直れなかった。
1907年から毎年ノルマンディーの避暑地カブールに出かけるようになり、教会建築を廻るために雇った運転手の中にアルフレッド・アゴスチネリがいた。この避暑地カブールが『失われた時を求めて』のバルベックのモデルとなり、アゴスチネリが語り手の恋人アルベルチーヌ・シモネのモデルとなった。
1908年から『失われた時を求めて』を書き始める。
1912年『失われた時を求めて』第1篇「スワン家のほうへ」の原稿が完成する。いくつかの出版社に断られた後グラッセ社から1913年11月16日に出版した。
1918年『失われた時を求めて』の全篇の清書が終わる。この頃から発話障害と一時的な顔面麻痺が起こるなど体調を崩すようになった。
1919年6月第2篇「花咲く乙女たちのかげに」刊行。この作品がゴンクール賞(フランスの最も権威ある文学賞)を受賞。
1922年11月18日『失われた時を求めて』第5篇の改稿作業中に、喘息の発作と風邪による肺炎併発のため51歳で息を引き取った

『失われた時を求めて』

眠りと覚醒の間の曖昧な夢想状態の感覚、紅茶に浸った一片のプチットマドレーヌの味覚から不意に蘇った幼少時代のあざやかな記憶、2つの散歩道の先の2家族との思い出から繰り広げられる挿話と社交界の人間模様、祖母の死、複雑な恋愛心理、芸術をめぐる思索など、難解で重層的なテーマが一人称で語られ、語り手自身の生きた19世紀末からベル・エポック時代のフランス社会の諸相も同時に活写されている作品である。

Wikipedia

この作品より、ある匂いを嗅ぐとその関連した記憶が思い出されることを「プルースト効果」という。

1913年11月14日 第1篇「スワン家の方へ」
1919年6月    第2篇「花咲く乙女たちのかげに」
1920年10月     第3篇「ゲルマントのほうⅠ」
1921年5月    第3篇「ゲルマンとのほうⅡ」
1921年5月    第4編「ソドムとゴモラⅠ」
1922年5月   第4編「ソドムとゴモラⅡ」
1923年      第5篇「囚われの女」
1925年       第6篇「消え去ったアルベルチーヌ」
1927年       第7篇「見出された時」

スタジオジブリ週間2日目

111日チャレンジ39日目

となりのトトロ/井上あずみ

映画『となりのトトロ』は1988年4月16日に公開。宮崎駿監督の長編アニメーション映画第4作。キャッチコピーは「このへんな生きものはまだ日本にいるのです。たぶん。」

STUDIO GHIBLI

楽曲「となりのトトロ」は1988年3月25日リリース。井上あずみのシングル曲。

あとがき

この日、中日ドラゴンズが他球団の戦力外選手4選手の獲得を発表しました。

中島宏之内野手
1982年7月31日生まれ(41歳)
伊丹北高ー西武ーアスレチックスー2Aミッドランドーオリックスー巨人
2005年ドラフト5位
プロ21年目
通算1933試合7415打席6580打数1928安打
本塁打209本 打率.293 OPS.810

中日新聞

上林誠知外野手
1995年8月1日生まれ(28歳)
仙台育英高ーソフトバンク
2013年ドラフト3位
プロ10年目
602試合1860打席1700打数412安打
本塁打57本 打率.242 OPS.704

スポーツ報知


山本泰寛内野手
1993年10月10日生まれ(30歳)
慶應高ー慶應大ー巨人ー阪神
2015年ドラフト5位
プロ8年目
341試合755打席647打数152安打
打率.235 本塁打5本 OPS.625

板山祐太郎外野手
1994年3月27日生まれ(29歳)
成立学園高ー亜細亜大ー阪神
プロ8年目
137試合214打席195打数40安打
打率.205 本塁打1本 OPS.532

ようこそドラゴンズへ、中日が優勝出来るように、1年でも長くプロ野球選手でいられるように頑張って下さい。