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ロシア日記 2018年4月27日〜5月5日

2018年4月26日深夜、関西国際空港のホテルで、私はロシア側の担当者であるアナスタシアに掛け合っていた。

「早く飛行機のチケットを送ってほしい。このままだと明日のフライトは不可能だし、ロシアにも行けなくなる。」

「今、上司に承認を取っているからもう少し待ってほしい。」

「いったい何時間かかるのか。予定のフライトまであと数時間しかない。あと1時間以内にチケットを送れないなら、男子新体操チームのロシア行きは諦めてほしいと上司に伝えてくれ。」

「あと2時間だけ待ってほしい。絶対になんとかするから。」

ロシアから勝ち抜き形式のTV番組への出演依頼がきたのは、2月下旬のことだった。井原高校の動画を見て、ぜひロシアの人々に男子新体操を見せたいと思ったという。さっそく井原高校の長田監督に連絡を取ったが、残念ながら学校の許可が下りなかった。そこで井原出身者の多い花園大学に井原高校の作品を演技してもらえないかと依頼し、以下の6人で井原高校の2014年度の演技をすることに決まった。(テレビの都合上、本来3分ある団体演技を2分に縮めて行うことになった)

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小川晃平(花園大学コーチ、井原高校出身)
上野颯太郎(3回生・団体、光明学園相模原高校出身)
中村大雅(2回生・団体、恵庭南高校出身)
森多悠愛(2回生・個人、恵庭南高校出身)
小寺玲央(2回生・団体、井原高校出身)
小川恭平(2回生・個人、井原高校出身)

しかし2時間待っても、チケットは送られてこなかった。「冗談ではない、いい加減にしてくれ」とこちらも半ば切れそうになりながら交渉を続け、とうとうフライト当日の深夜2時過ぎにやっとチケットが送られてきた。ホテルの人気のないロビーでチケットをプリントアウトしながら、やれやれと胸を撫で下ろす。ロシア人はのんびりしていると聞くが、これがロシア流なんだろうか。

ほとんど眠れないまま、朝を迎える。花園大学の選手たちもまた、朝4時起きで空港に集合する。海外旅行保険や外貨両替などをしていたら、搭乗時間ぎりぎりになってしまった。出国手続きの長蛇の列に並んでいる人たちに事情を説明し、「すみませんが前にいかせてもらえないでしょうか?」と頼み込む。ここで飛行機に乗り遅れたらシャレにならない。なんとか間一髪で飛行機に乗りこみ、一路ロシアへ。

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モスクワのシェレメチボ空港で迎えてくれたのは、ダニエル君という、童顔でニコニコした青年だった。決して流暢とは言えない英語でジョークを言って私たちを和ませてくれ、「寒いから風邪ひかないようにね」とホテルへのタクシーに乗せてくれた。ホテルに待っていたアナスタシアは、大きな美しい目をした若い女性で、私はこんな可愛い人にずいぶんと厳しいことを言ってしまったと後悔した。

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↑中村選手、ダニエル、アナスタシア

ホテルは、ブッシュ元大統領やクリントン夫妻、ウサイン・ボルト、シルク・ドゥ・ソレイユなども宿泊した一流ホテルが用意されていた。ジムやプール、サウナも完備していて、選手たちは時間のある時にジムで体を鍛えていた。特に団体選手の上野君はトレーニングを毎日欠かさず、撮影が深夜まで続いた翌日も、朝からジムに行って鍛えるストイックさを見せていた。

リハーサルが行われる予定だった4月28日、スケジュールが変更され、ダンススタジオでの練習となる。マットのない、硬い床での練習だった。手のひらを打ち付ける振り付けで思わず「痛い!」と選手が声をあげる。すかさず他のメンバーが「がんば!」と声をかける。フロア中央に大きな柱があり、団体の練習ができる環境ではなかったが、選手たちは黙々と練習を続けた。

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私はアナスタシアに「スプリングフロアを用意してくれ、そうでないと彼らは練習ができない」と訴えた。スプリングフロアに関しては、テレビ出演の話があった時に真っ先に確認した事項だ。男子新体操はマットがなければ演じられない、そのマットを用意できるかと聞いた時、「大丈夫、用意する」と言われていたのだ。

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翌4月29日、今日こそはスプリングフロアのあるジムで練習ができる、そう思って練習場所に行ってみると、そこは畳にビニールカバーを被せたようなマットが敷かれた、格闘技のジムだった。塩素のような異臭のするそのタタミ・マットの上で、選手たちは組みやタンブリングを除いた徒手をひたすら練習するしかなかった。

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そんな状況であっても、彼らは常に前向きで、厳しい練習の中にも笑顔を絶やさない。特に中村君や森多君ら下級生たちの天真爛漫さ、底抜けの明るさは、チームばかりでなく、私にとっても大きな救いであった。

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ホテルに帰ると私は再度アナスタシアに訴えた。
「これでは話が違う。組みやタンブリングができないのでは練習にならない。こんな練習しかできないようでは、本番でのクオリティは低くならざるを得ない。」
言葉で説明してもわかってもらえないならと、花園大学での練習の様子とロシアでの練習の様子を比較した映像を作り、送った。2月からずっとやり取りしてきたアナスタシアは、私や選手の要望を理解していたのだが、テレビ番組の制作には膨大な数のスタッフが関わっており、彼女の意図がうまく同僚に伝わっていなかったらしい。しかし、なんとかしてスプリングマットを探すと約束してくれた。

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翌4月30日。
3度目の正直で、今日こそはスプリング…と期待する我々に告げられたのは、イリナ・ヴィネル氏(ロシア新体操連盟会長)が所有するジムに行く、ということだった。今度こそ間違いない、ヴィネル氏は日本の男子新体操に理解が深く、ロシアで男子新体操を広める牽引力となっている人だ。男子用のスプリングフロアがあるに違いない。

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1時間以上バスに揺られ、着いたところは豪華なジム。内部に入ってもっと驚いたのは、5つ星ホテルかと思うような豪奢な作りの客室。選手はそこに案内され、「着替えなど自由に使ってください」と言われる。所長のマリアンナさんは、何か必要なものはないか、何かできることはないかと私たちを気遣ってくれた。

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イリナ・ヴィネル氏のジム
女子のカーペットの隣にある、男子用のフロア。
小川コーチが一目見て「スプリングじゃない」と呟く。カーペットをめくってみると、コルクのような木材が見えた。その硬いマットの上でロシアの男子選手はタンブリングするのだという。

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選手たちはそれでも、熱心に徒手を練習していた。私にはまったくわからない、細かなズレを小川コーチが修正していく。自分達の動画を見ながら、「玲央、ここちょっと早い。恭平、もっと前。」などと矢継ぎ早に的確な指示を出し、選手のほうも「はい!」と応じる。そんな彼らの様子をフロアの端でじっと見ている女性コーチがいた。後でわかったのだが、彼女はシドニーオリンピックで金メダルを取った、ユリア・バルスコワさんであった。

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ユリア・バルスコワさんと

↑ここまでの話をまとめた動画

5月1日。昨夜遅く撮影スタジオにマットが搬入されたという。そのスタジオで練習させてくれと掛け合い、やっとマットの上で練習できる見通しが立った。今度こそ…とスタジオに着いてマットを見ると、確かにスプリングは入っている。しかし、跳ねない。日本のマットよりもかなり硬い。スプリングも弱く、板と板をつなぐ金具がなく、マジックテープで止めてある。タンブリングを練習していると、その板がずれ始め、隙間ができた。

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TVスタッフもあちこち手を尽くして探したのだが、体操用のマットを貸してくれるところが見つからず、新品を外国から購入したのだという。これで予算の半分を使ったよ、と大道具の担当者に言われた。そこまでしてもらったのなら、それを使うしかない。しかしこれでタンブリングや交差はできるのか。上にかぶせてある1cmの厚みのあるカーペットを折って、2枚にして跳んでみる。「これならなんとか大丈夫そうです」と選手たち。大道具担当者と話し合った結果、3cmの厚みのあるカーペットを急遽新たに購入し、今ある1cmのカーペットの上に重ねてもらうことになった。

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↑TVスタッフ達と

「彼はぶっきらぼうだけど、気にしないで。ここのところ、みんな寝不足気味なの。彼は自分の仕事にベストを尽くす人だから大丈夫。」とアナスタシア。ロシアの人々も、我々のために全力を尽くしてくれているのだ。

5月2日、リハーサル。スタジオ入りする前にモスクワ市内を観光し、その様子をプロフィール担当のスタッフが撮影した。スタジオに入ってからもプロフィール用の撮影は続き、「YouTubeを見て笑っているメンバーを尻目に黙々とストレッチしているリーダーKohei」とか、「本番前に緊張しつつ、日本に電話するKohei」などという設定で撮影が行われた。スタッフからは「演技がとても上手!シャイかと思ったけど、全然違うのね!」と褒められたが、どういう編集がされるのか、若干気になるところではある。

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↑「緊張しながら日本に電話する」という設定で演技する小川晃平さん

リハーサルでは、マットの周囲に本物の竹と葦が置かれ、日本的な雰囲気が作られていた。プロジェクションマッピングの担当者とも打ち合わせを行う。明日の本番では前半・後半にわけたものと、通し2本を撮影するとプロデューサーに告げられる。さすがに通し2本は厳しい、1本にしてくれと交渉するも、まとまらず。「また明日話し合いましょう」ということになった。

5月3日、本番。
早朝からスタジオ入りし、マットの上で演技を撮影。てっきり本番だと思い、全力で1本通しをしたあとに、「ではこれから本番です!」と言われ、やられた…と私は内心思う。しかし小川コーチと選手たちは「大丈夫です、やります!」と言ってくれた。

現場を仕切るカーチャが「スタンバイ!」と指示を出し、選手たちが冒頭のポーズを作る。小寺君の足が高くあがり、森多君の手がカメラでアップになる。ライトが当たって美しい。

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カーチャが「ムジカ!(音楽)」と叫ぶと、あの井原2014のピアノが流れ始める。この曲はロシアの人々にも印象深かったらしく、カメラマンたちがこの曲の男声パートの部分を真似しながら笑いあっている光景も見られた。肩上の組みから、中村君が大きく跳ぶと、プロジェクションマッピングで白い鳥が背景を飛んだ。

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恭平君によると、「今までで一番良い肩上だった」とのこと。第一タンブリングの最初に、中村君が豪快な大文字を見せる。これは、ロシア側から「是非演技に入れてほしい」と特に注文があった技だ。ものすごいスピードでテンポ宙を見せる小川コーチを、カメラがアップで追う。

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ぴったりと揃った美しい徒手を見せる選手たちの正面を、カメラマンが超至近距離で撮影している。続いて鹿倒立。一本目の通しで若干乱れのあった箇所。今回は全員が持ちこたえ、揃って足が天を突いた。井原仕込みの美しいバランスを見せる恭平君がカメラでアップになる。ラストの交差技は、私の目からはギリギリに見えてヒヤリとしたが、無事にクリア。最後に左手を前に突き出したポーズで静止したまま、荒い呼吸をする上野君の顔がアップでカメラに映し出されると、「スパシーバ!(ありがとう)」というアナウンスが入り、本番の撮影が終了した。

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彼らはほぼノーミスの演技を、2本続けて演じきった。
あの硬いマットの上で。
彼らが誇らしくて、男子新体操が誇らしくて、涙が出た。
彼らの渾身の演技が終わった直後の、スタッフからの喝采は忘れられない。みな、手を高くあげ、声にならない声をあげ、何かを叫んでいた。「あなたたちは本当に素晴らしい、感動した」と何人もの人が言いにきた。少なくとも私には、それは社交辞令とかお世辞ではなく、心の底から出た言葉だと思われた。

日本の男子新体操は、世界に通じる。

そう確信できた瞬間でもあった。
本番の演技。立て続けに2回の通しをほぼ完璧に行った。

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演技をやりきった選手たちの顔にも、達成感が滲んでいた。しかし彼らには休む間もなく、次々に撮影の要請が来た。ステージに登場する時の映像、演技を終わった後に観客の間を通り抜ける映像、円陣を組む映像、そしてステージ上で司会者やジャッジと話す映像などなど。それらを後から編集して、番組が作られる。

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この番組は勝ち抜き形式で、1回戦で対戦したのはロシアのチアリーディングチームだった。男子新体操のマットをスタジオにセットしたまま番組を進行できないため、さきほどの本番の通しをステージ上のスクリーンに映したものをジャッジが見て、勝敗を決めるという形式がとられた。結果、3対1で男子新体操チームの勝利。選手たちは耳に装着したマイクから同時通訳の声を通してジャッジのコメントを聞いていたのだが、「まるでシンフォニーを聴いているかのようだった」というあるジャッジのコメントは、最大級の賛辞であったと思う。

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1回戦を突破した7つのチームのうち、観客の投票によって選ばれた1つのチームのみが決勝戦に進めることになる。男子新体操チームの演技は、やはり生の演技ではなく、録画したものがスクリーンに映し出され、それを観客が見て投票する。

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最も多くの票を得たのは、男子新体操チームではなかった。残念ながら、決勝戦には進むことができなかった。私は口にこそ出さなかったが、「生の演技を見せられていたらきっと…」という思いを抑えられなかった。しかし、この結果に一番悔しい思いをしているはずの小川コーチは、スタジオから引き上げながら仲間たちに言った。

「俺たちの負けだ」

アスリートたちは、日々「勝つか負けるか」という世界で生きている。「勝った」「負けた」というわずか3文字で表される容赦ない結果の背景にあるものは、多くの場合、人の目に触れることはない。ただ私は今回、彼らと行動を共にしたことによって、その背景の一部を知り得る機会を得た。だからますます、負けを受け入れることが難しく感じていた。「あんなに頑張ったのに」「あんなにいい演技だったのに」…

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小川コーチが「俺たちの負けだ」という言葉を発した時のあの、勝者への敬意というべきか、あるいは諦観とでもいうべきなのか、あっさりと、サバサバとした感じが忘れられない。悔しくないはずはないのだ。彼が競技者としてのこれまでの人生の中で身につけた、凡人には計れぬ大きく深いものを垣間見た気がした。

控え室に戻り、共演者たちと写真を撮りあって交流する選手たちは、普通の大学生の顔に戻っていた。ロシアという異国での体験は、彼らのこれからの人生の糧となっていくに違いない。それはおそらく、彼らが新体操をやめた後でも心の中に残り、彼らの今後の人生をあたため続けるだろう。

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すべての撮影が終わったのは、深夜1時半を回った頃だった。アナスタシアにメンバーからのサンキューカードを贈ると、とても喜んでくれ、全員の頰にキスしてくれた。彼女は日本の男子新体操の映像をSNSで見つけ、コンタクトを取り、ロシアに招待するという長い長い道のりを歩んでくれた。すべては、ロシアの観客に日本の男子新体操を見せるために。

↑ここまでの話をまとめた動画(テレビ収録の様子など)

飛行機がモスクワの空港を離陸する時、「ありがとうロシア」という気持ちが湧き出てきた。ロシアは偉大な国だった。そして人々はあたたかかった。この国との友好を今後も育むことができれば、日本の男子新体操はさらに発展するに違いない。

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最後に、今回のロシア行きにあたり多大なるご支援をいただきました花園大学の皆様、井原新体操後援会の皆様、井原高校新体操部監督長田京大先生、ビデオ製作にご協力いただいたSarah Hodge様、そして小川晃平君、上野颯太郎君、中村大雅君、小川恭平君、森多悠愛君、小寺玲央君に心よりお礼申し上げます。

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↑花園大学新体操部の6名。左から森多君、上野君、小川幸平君、中村大雅君、小川恭平君、小寺玲央君。人間的にも素晴らしい青年たちであった。

<↓本番の演技はこちらの動画でどうぞ↓>


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