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幸せのコップに入るものは承認欲求ばっかりでつまんない

 腹が立って仕方ないことがあった。どうやって解決するかを知っていた。だから6秒数えて深呼吸した。すると、なんということでしょう。100秒数えても解決しません。きっと勉強不足なのでしょう。だから自分なりにアンガーマネジメントを考えた。怒るとシワが増えると言われている。シワが増えるからそれを背面の恐怖に置き換えて、怒らない。ということはできるのだろうか。はたまた、シワを恐怖ではなく、友好的にした名文句がある。手のシワとシアを合わせてシアワセ。幸せを考えることが強いては怒りからの解放になるのだろうか。


 もうね、幸せについて話すにはテーマが巨大すぎて私では太刀打ちできない。かと思ってみたら、そうではないことにびっくり。さすが俺である。ある気づきがね、幸せってことについて私が話してもいいんだ。と敷居を低くしてくれた。え?その気づきが何か気になる?え?気にならない?そこは、気になっていただきたい。こちとらその気づきを話したくてうずうずしているのだから。よしきた。そんなに聞きたいならお話ししよう。その気づきとは、なんと。なんと!「幸せの形は一つでない。」これです。


 幸せのコップ。うむ。かなり素晴らしく納得しやすい例えで、俺好き。で、セットになってくるのが承認欲求。マズロー君の、これまた素晴らしい理論。ですね。素晴らしすぎるが故に疑わなかった。疑わずに信じ切っている人いると思う。ここを定義として幸せを発展させている人もいると思う。ダメって話じゃなくて、まぁ、続きを読んで。

 昨日、ガリレオが私に言った。夢でだけど。「アリストテレスが全て正しいと思うなよ。地球が宇宙の中心という常識を疑え。」目が覚めた。幸せのコップを疑ってみた。すると、なんということでしょう。幸せのコップには疑問点があったのです。その疑問点が、幸せとは欲求で満たされるという考えをベースに組み立てていること。疑問点はつまり、「幸せって、欲求だけじゃないよね。」

 文頭にも述べたが、幸せの形は、定義は、人それぞれ違うことに気づいた。だから、こんな尊い言葉である幸せについて私でもこう話せるようになったのだが。

 幸せのコップという名前がインパクトがありすぎるよね。幸せのコップの”幸せ”というのが穴。幸せのコップでなくて、欲求のコップが正しい言い方なのでは。幸せになるためには欲求を満たす方法を考えましょう!どう満たしましょう。自己欲求ですか。他者欲求ですか。人に褒められるようにしましょう。そのためには、ブラブラ。自分を認めてあげましょう。そのためには、ブラブラブラ。幸せと欲求がイコールの人ばかりではない。

 私は幸せを感じたことがあります。それはなにか。それは、子供が生まれたことです。自分でも本当にビックリ。なんだろう。心がポカポカする。「綾波ー!俺、ポカポカしてます!」理屈じゃない。幸せとは感じることである。今ではこれが私の幸せの定義となっている。じゃぁ、幸せになるためには子供を作ればいのか。という話ではなくて。私の場合、幸せを感じる手段が、子供だっただけで、子供を手段とかいうとなんだか誤解を生みそうだが、そう言った意味ではないのはわかるよね。幸せを感じる手段が子供だっただけで、それはなんでもいい。感じられればそれでいい。学生時代のカップルのようだ。「一緒にいるだけでいいの。ぽっ。」幸せは感じるだけのもの。つまり、幸せになりたいと努力したから手に入る物ではない。承認欲求を得るために努力したから幸せになることはない。気づくと、あれ、ポカポカする。なんじゃこりゃ!綾波ー!という天からなんかしらんけど、降り注がれた状態。そう、気づいたらそこにある状態なのだ。だから、人が幸せを手に入れれるとか入れれないとかとかそんなふうに考えるのはおこがましく、だからこそ幸せとは尊いものである。思う。

幸せのコップとは存在しない。

幸せは量ではなく、

測るものではなく、

欲求ではなく、

求めるものではなく、

感じるものだから。

という考えはいかが。


 まとめると、手のシワとシワを合わせて幸せ。シワとシワを合わせれば幸せになるのだろうか。怒ってなくても年相応に顔にシワが出てきた。自分の顔のシワを合わせることはできないので、誰かの顔のシワを借りて合わせるとする。子供にはまだシワがない。親父、おふくろは70歳。シワがある。が、親父と顔を近づけることは遠慮しておこう。ならば、嫁か。年が近いので、少しはシワもあるだろう。嫁のおでこのシワと私のおでこのシワを合わせる。うむ。幸せを感じれそうだ。

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